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2006年4月

2006年4月30日 (日)

ファンタスティック・4

B000cd1p0o09_scthumbzzz_1  やっと通信講座の課題(300枚)が完成!!連休前に送れて気分爽快。

 でも、おかげでずっと狙ってた「変態村」(ポルノじゃないよ。ベルギー映画です)を見逃した!!悲しすぎ。。。

 仕方ないから、かわりに(?)「ファンタスティック・4」のDVDを借りてきた。

 ジェシカ・アルバ大好き。「ダークエンジェル」で惚れて以来。「シン・シティ」では思ったより出番がちょっぴりで寂しかったけど、こんどはちゃんと「4」の一員として活躍してます。

 原作がアメコミのせいか、アクションというより笑っちゃう場面が多くて、ほとんどケラケラ笑ってた。主役が、ゴム人間のくせに大真面目な研究者風なのがそもそもおかしい。

 オプションで入ってた「プリズン・ブレイク」第一話の方がスリリングでおもしろかったかもしれん……。刑務所モノは好き、というか、なつかしい。

 ジェシカ・アルバといえば、もう一つ難破船の映画にも出てるので、そのうち観ようっと。でもやっぱりなんといっても「ダークエンジェル」のマックス役が一番イケてた。最近は、なんだかアメリカの「セクシーな女性ランキング」とかいうやつの、2番か3番に選ばれたらしい。でも、アメリカなんかの健康美や大衆向けのセクシーさなんてどうでもいいんだ。あんまり清潔になって欲しくない。もっといい映画に出ておくれ~ジェシカ。

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2006年4月22日 (土)

ナスカ展で考えた。呪わない理由

 上野の国立科学博物館でやってるナスカ展に行ってまいりました。

 地上絵だけではなく、彩色土器やミイラも見られます。

 初めて知った、級首(トロフィー・ヘッド)という習慣。

 ナスカでは戦争が盛んだった。そして、倒した敵の首を狩る。昔の日本でも敵の首を落とすという習慣はあったわけだが、「確かにこの人を倒しました」という証明のために持ち帰るのだから、地位のある人の首でなければ意味がない。ナスカでは、別に相手の地位などは関係なく「人間の頭部には特別な力が宿る」という考えだったらしい。持ち帰った頭を、作物がよく育つようにという祈りをこめて畑に埋める(リサイクルかい!)。あるいは加工してミイラにして、豊穣の儀式のときに首から下げて使ったという。

 この「敵の首を埋めることによって豊穣を祈る」という考え方が非常に不思議だ。私だったら「敵の首なんか埋めたら逆に呪われるんじゃないか」と思う。それに敵の首を儀式に使うといったら、黒魔術のようなブラックなイメージを受ける。しかし、ツボなんかに首をぶらさげた人の絵が描いてあるが、別にダークではなくあっけらかんとした感じだ。ナスカには「人を呪う」という概念はなかったのだろうか。

 その理由について考えたのは、

1 自我の未発達?

 呪うためには、自分⇔敵 もしくは、自分の部族⇔他部族

とにかく自分対他者という、明確な線引きが必要だ。ナスカ人にははっきりした線引きがなく、「自分も敵もしょせん自然の一部サ」と、総括的に考えていた。よって呪いという概念がなかった。

2 残留思念という考えがない?

 そもそも「人の強い感情は死後も残る」というお約束がなければ「呪い」という発想も生まれない

3 「もし自分だったらイヤだろう」という立場転換の発想がなかった?

なぜ呪われると思うのか。それは「自分だったら、首をぶった切られて敵の部族の畑に埋められたらイヤだろう」と思うからだ。従って、「もし自分だったら」と、敗者をわが身に置き換える発想がなければ「呪われる」という考えも生まれない。

4 いや、もし自分がやられたとしても、怒らない人々だった?

展示されてるツボの中に、猫系の怪物を描いたものがあった。おおむね面白みのないナスカ芸術の中で唯一ホラーチックだったのがこれで、デカい猫みたいな怪物が人の首を食いちぎっている。解説には斬首を象徴的に表現したもの、とあった。私は、この怪物は敵というよりむしろ、「飢餓」もしくは「厳しい自然環境」を象徴しているのではないかと思った(砂漠地帯なので水が貴重)。しょちゅう戦争していたのは、食料もしくはより良い土地の争奪戦だったはずで、だとすると「真の敵は人間ではなく、飢え(あるいは環境)だ」という考え方が成り立つ。

「誰かの死によって自分が潤う」というのはヤな発想だが、資源に余裕がないとそういうことになる。だから飢えた敵が襲ってくるのも仕方ない→首を切られて他人の畑に埋められても、それも厳しい自然のせいだし、お互い様。だから呪いません。ということだったのか。

(※以上、あくまで素人の推測ですが)やっぱり不思議だし、凄絶だ。敵の首を自分の畑に埋めたら作物がよく育つと思ってる人々……。実は「呪い」なんてもんは、豊かな土地で育った人間の、甘い発想なんだろうか。

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2006年4月15日 (土)

「大人の泣き方」考察②

Grass メガネについて

 たいして涙が出てもないのに、都合が悪くなるとソッコーでメガネを外し、「泣いちゃうぞ」というジェスチャーで相手にプレッシャーをかける。私の祖母は、こういうイヤラシイ技の達人であった。さらにハンカチで目元を押さえ、「こんな年寄りに……」などと呟けば、もはや向かうところ敵なし、誰も彼女に逆らえる者はない。

 これが母ともなると、あっけらかんとして中性的な現代人である。だから泣いたとしても、弱者の立場を逆手に取るような「女の妖術」を持っていない。祖母だけが、ちょっとした仕草や声で相手に強烈な罪悪感を植えつける術を知っている。こんなことができるのは、「女である自分」は「絶対的に守られるべき存在」という図式が血の中に染みこんだ、実際そのようにして徹底的に甘やかされた経験を持つ者だけだろう。また、頭で計算してやるものではないから、私がいくら「技を盗んでやれ」と思ったところで、とても太刀打ちできるものではない。なんせ「泣けば済むとでも思っとるのか!」と怒鳴られて育った人間と、100回中100回泣いて許されてきた祖母とでは、刃物に触ることさえ禁じられた少年と、5歳の頃から剣を持たされ15で二刀流を操る天才剣士くらいの違いがあるのだ。

 こんなおそろしい祖母がいたので、私は「メガネの人の涙恐怖症」になってしまった。

それはともかく、メガネの人は、裸眼の人と違って「メガネを外す」という行為自体に主張があるのは確かだろう。それが押し付けがましく見えもすれば、「かわいい」などという人もいるわけだ。私は、個人的にサングラスの下から流れ落ちる涙、というのが好きで、だからメガネも最後まで外さない方が美しいと思っている。

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2006年4月 8日 (土)

「大人の泣き方」考察

*涙に関する基本事項*

○涙は発散であり、ストレス解消法であり、カタルシスである。

○涙は表現方法であり、武器であり、芸術である。泣いている人間を非難したり、蔑んだりしてはいけない。涙を侮る者は、おおむね他のボディランゲージや表現力においても貧しく、生涯それを使いこなすことはできないであろう。

あるとき居酒屋のお座敷席で、いい年の男が、のび太泣き(正座した姿勢から上体を屈め、丸くなって畳に突っ伏して泣く)をやっていた。さらに、そこらの女性を手当たり次第につかまえ、のび太泣き・DEEP(誰かを自分の正面に正座させ、そのひざに突っ伏して泣く)に移行しようと隙を狙っていた。こんなにゲッソリする光景が他にあるだろうか。

まず、姿勢がいけない。のび太は小学生である。大人が真似するものではない。また、着物の時代には風情のあった泣き方も、現代には通用しない。たとえば洋服は和服と違って上下が分かれているため、むやみに背を丸めると、シャツのすそがズボンからはみ出たり、下着が見えたりする。現代人は畳ではなくテーブルに突っ伏そう。

己を客観視する冷静さを忘れ、やたら醜い姿をさらしても、誰も同情はしてくれない。女性はこのことをよく知っている。しかし男性は、作法を習得する以前に、涙そのものを禁じられてきた歴史がある。ともすれば「解禁はされたが、ガイドラインがない」という状況に陥りそうだ。まずは映画などで泣いている俳優を見て、研究してみよう。

かといって何が正しいというのもないわけで、最後は自分のセンス、自分の考え方次第だ。「コレがあたしのやり方」「コレがオレ流だ」という自分なりの美意識とこだわりを持とう。本当に自分なりに考え抜いた結果「のび太泣き」に落ち着いたのであれば、手近な女性をドラえもん代わりにするなどという中途半端な真似ができるわけがないのだ。

*老若男女を問わず使える、大人の泣き方を考えてみました

ベッド・ヴァリエーション

1 お屋敷風

 ベッドの横にひざをつき、ベッドに上半身だけ乗せた状態で、つっぷして泣く。寝具が乱れていると貧乏くさい上、なにやら淫らな雰囲気すら漂うので、事前にきっちりベッドメイクしておくのが良い。ベッドはレースのカーテンや天蓋つきだと、なお良い。

2 「絶望のどん底」風

 ベッドにうつぶせに倒れ、腕に顔をうずめて泣く。ヘタに隠れようとして毛布や掛け布団の中にもぐったり、枕を抱えたりすると格好悪い。あえて堂々とやろう。

 ウォール・ヴァリエーション

1 「涙の別れ」風

 窓辺に立ち、去ってゆく何者かを見送りながら泣く。誰もいなくても、とりあえず窓際で外の景色などを眺めながら泣く。厚いカーテンは開き、レースのカーテンは閉じておこう。

2 「刑期延長が決まった受刑者」風

 壁に向かって立ち、一方の腕に額を押し付け、もう一方のこぶしで壁を叩きながら泣く。壁は部屋の壁でも良いが、できればコンクリートの方がより風情が増す。

3 マッド・サイエンティスト風

 壁に自らの頭を打ちつけながら泣く。ジェスチャー自体にインパクトがあるため、どんな壁を使っても有無を言わさぬ迫力がある。より深い絶望や自己嫌悪を表したければ、さらに強く打って額から流血させるべし。

その他、室内ヴァリエーション

1 悩める詩人風

 部屋の中を、ひたすらグルグル歩き回りながら泣く。たまに髪をかきむしり、おたけびを上げよう。

2 わがまま猫風

 大胆に、床に仰向けに転がって泣く。ただし、あまり手足をバタバタしてはいけない。交差させた腕で軽く顔を覆うとセクシー。

3 「悲劇の商談」風

 机に突っ伏して泣く。散らかっていればいるほど、多忙感と絶望感が増して良い。書類なんぞは、涙で汚してしまおう。

4 「恨みの刃」風

 大きめの魚、もしくは肉の塊を用意する。そこに幾度となく包丁をつき立て、切り刻みながら泣く。「ちくしょう」「死ね」など、掛け声をかけるとより爽快感が増す。

屋外ヴァリエーション

1 青春風

 走りながら泣く。視界が曇っているので、転んだり車にぶつかったりしないように注意しよう。近所に砂浜などがあると、障害物がないので合理的だ。

2 「闇の亡霊」風

 夜の森を駆け回り、絶叫しながら泣く。

3 部族風

 空き地で火を燃やし、その周囲をぐるぐる回って「悲しみの踊り」を踊りながら泣く。ボディペインティングをほどこし、手製の槍などを持ってムードを出そう。

さあ、あなたも今日から涙の達人!

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2006年4月 7日 (金)

これなあに?

Marmaid_1  このまえ新調したヘア・ウィッグ<マーメイド>(勝手に命名)。洗って干した……。

 近所にロングでも¥3000で買えるお店があって、これは、私があちこちの店を見て回って比較検討した中でも、かなり安い。自分の髪をここまで伸ばしてパーマやカラーリングした場合の手間隙と美容室代を考えると、ここでウィッグを買った方がお得なのです。

 ただし、デパートでは透明な袋に入った状態で売られているが、この店ではむき身のまま長いあいだ棚ざらしになっている。ウィッグは化繊なので、静電気で周囲の埃を吸い寄せて、かなり汚れている。あと、この店で使われている静電気防止スプレーが、ちょっとヤな匂い。だから、買って帰ったら必ずシャンプーで洗ってあげなければならない。

 そして、店主のおじさん(おすぎに似てる)が説明大好きなので、買う時に必ず何十分かウィッグについての説明を聞かされる。べつにこっちが迷ってるわけじゃなくて、ストレートに「これください」と言っても、やっぱり色々と豆知識を披露してくださる。それを聴かなければ、レジまでたどりつけない。よっぽどウィッグが好きなのか、このおじさん。何か相談したいときや、「こういう感じの髪型にしたいんだけど」という時には、きっと頼りになる存在。実際、教えてくれて助かった豆情報もあるし。

 この店には、他にナイトクラブのステージ衣装みたいなのも色々飾ってあるが、このへんの主婦はあんなの買わないだろうに……。ちょっと不思議なお店。

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2006年4月 1日 (土)

「コレを好きな人はコレも好きなはず」って何よ!?

Ani111s11  個人的に、目にしたり耳にしただけでものすごい腹の立つ言葉があるが、その一つが「コレを好きな人はコレも好きなはず」という言い方だ。

たとえばレンタルショップのCDコーナーで、「○○を好きな人はコレも好きなはず」という店長おススメのメモが貼ってある。あんなものを信じて借りると、ほぼ100100中失敗する。確かにそこに書かれている「○○」は大好きだが、「コレ」を借りてみると大嫌いだ。音楽に疎い私は、いったい○○とコレとどこが似ているのか、どこが繋がっているのかまったくわからない。あの理屈はどこから出てくるんだろう。たとえジャンルが同じでも、ちょっと時代が変われば使ってる楽器がぜんぜん違う。歌詞だって(歌詞は重要だ)ミュージシャンの性格が違えばまったく違ってくるではないか。

一番最初にこの言葉で失敗したのは中学のときで、ある日クラスの子がファンタジー小説を持ってきた。私がファンタジー好きなことを知っていたので、「小宮ちゃんなら絶対こういうの大好きだよ」と自信たっぷりに言い切って貸してくれた。読んでみたら、ジュニア向け文庫の、チャチい三文小説だった。

ファンタジーといっても幅が広い。当時の私がハマっていたのは、ヨーロッパの民間伝承だ。三文ファンタジーも読んではいたが、それには戦闘シーンが過激だとか、悪役が残虐だとか、輪姦とか拷問とか両性具有者×触手の怪物のカップルとか、そういう正統派にないテイストが必要だ。いくら中学生でも、ただの楽しい冒険ファンタジーで、主人公の恋はキス止まり、せっかくの美形の彼氏はズボンのヒモ(中世風の世界だからジッパーはない)さえほどかない――そんな代物を読んだって、おもしろくもなんともない。それで一流小説ならまだしも、三文である。三文のクセにお上品ぶっているのだがら、バカバカしいことこの上ない。

しかし男でも女でも、純愛嗜好の人間というのは妙に独善的なところがあって、他人も自分と同じツボで感動するはずだ、と思い込んでいる。「もっとエロくて常軌を逸してなきゃダメなんだ」と何度言い聞かせてもわからない。それで、またしても三文のお子ちゃま向け初恋ファンタジー小説を持ってくる(今思うと、中学生だから仕方ない。そういえばあの子は学級委員長だった)。

あんまりこだわりがなくて、プロの仕事でさえあればたいがいのものを好きになってしまえる人、というのもいるにはいるんだろう。でも私は「好きなもの」を見つけ出すのが難しい。だから「あんたなら好きなはず」と言われて、わらにもすがる思いで手に取ったものが嫌いだった時、言葉で言い表せないほど腹立たしい。レンタル屋の店長にも「好きなはずって何!?○○とコレはぜんぜん違うよ!!」とどなりこみたいくらいだ。

友達の場合、薦めた当人というのは、本当に「これはあなたの趣味に合うだろう」と考えたというよりは、結局自分がそれを好きなのだ。だから「よかったよ、ありがとう」という返事を期待している。「なぜ私はそれが嫌いか」なんて聞きたくないだろうし、実際話そうとしてもなかなかちゃんと聞いてくれない。それなら、安易に「好きなはず」なんて断言しなければいいんじゃないかと思う。他人のことなんか、わかったつもりでも結局何もわかってないんだから。こっちも、言われてもいっさい信じなければいいのだ。ところがそう思っていると、ごくまれに本当に大当たりの時もある。困ったもんだ。

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