« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2006年5月

2006年5月27日 (土)

遅まきながら藤田嗣治展のこと

Photo_6  ←購入した絵はがき。フランスパンを買う女の子など。ウットリ。

 もう終了してしまったが、この前の日曜の最終日に、国立近代美術館の藤田嗣治展を観てまいりました。

 初期の人物画の、蒼ざめた肌や、暗いプラム色の口紅などには、かなりゴシック的な要素があると思う。ただ、本格的なゴシックと認定するには、幻想性が足りない。

 大きな発見。黒人を淡い色で描けるのか。しかも美しい。

 モップで床掃除するアニキ(向かって右下)がとっても魅力的な「ライオンのいる構図」。例外的に好きだ。というのは、ここに描かれた裸男・裸女は、例外的に魂を持っている。

私は裸婦時代の作品の多くに見られる、「なんにもしてない裸の女」というのが気色悪くてものすごく苦手だ。

たとえば髪をとかしている女ならいい。全裸で花をつむ女や、全裸で泳いでいる女だって美しいではないか。「全裸で殴り合う二人の女」だって壮絶だろうし、「全裸でパンを焼く女」なんてのもシュールでいいと思う。

ところが見事に「なんにもしてない」「何考えてるかわからない」。笑ってもいないし、怒ってもいない。それは人ではなく、主体性を持たず、ただモノのように晒された肉の塊というべきだ。それなら素直に、人形かゾンビを描いてほしかった。私は人形とゾンビは好きだ。だが、それらだけが持ち得る要素を、人間に求めるのは許されない事だと思っている。

もし能動性も、生のエネルギーも、創造性もすべて剥奪された状態を「美」と定義するなら、それは一種の恐怖政治ではないのか。

 

けれども、晩年の動物や子供たちの絵は、少女も含めてすべて「何かをやっている」。買い物している子もいるし、遊んでいる子もいる。「動物宴」の動物たちは、貪欲に食い物をあさっている。小さなタイル風の連作もおもしろくて、まるで十人十色の個性あふれる人生模様のようだ。とにかく子供たちは、それぞれが「なぜそこにいて、何をしたいのか」という、明確な動機を持って存在している。自分の世界、自分の欲求を持っている。だからすてきだ。

私はやはり、絵のストーリー性に共感できてこそ技術にも感動できる。これは好みの問題かもしれないが、晩年作品の展示室に来て初めて、彼の絵をすばらしいと思った。いつまで観ていても飽きない。この藤田という人はまったく、私は彼の女になるのは拷問されてもゴメンだが、娘にならなりたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月20日 (土)

鳥の巣の作り方

Nestphoto7  武蔵野市立吉祥寺美術館でやっている、「鳥の巣の造形美」というのを観てきました。(明日で終わっちゃう)。絵の他に実際の鳥の巣も展示されていて、たいへん楽しいひとときを過ごしたのでした。

 鈴木まもるという画家はちょっと変わったオッサンで、鳥の巣を拾ってきてはコレクションしたり、スケッチしたりしているらしい。

その巣というのが、愛らしい!おもしろい!これはどっから入るんだ!?(昔家の近所で「どっから入るのかわからない巣」というのをよく見かけたが、蛇などの外敵対策として、入り口が目立たないように下向きに建設したりするらしい)。どれも緻密で手が込んでいる。鳥の種類によって個性豊か。「鳥の巣は造形的に美しいのだ」という鈴木おじさんの考えもよくわかる。

 私はもともと羽根フェチなのだが、これを見たら巣も好きになってしまった。つる草をきれいに編んだ球形の壁なんかは、タイかベトナムあたりの小屋を連想させる。涼しくて住み心地が良さそうだ。それで思い出したのは、

 サイモン・ウェルズ監督の「タイムマシン」という映画がある。そこに80万年後の人間の集落がでてくるのだが、地底人の襲来を避けるため、家が断崖絶壁に鳥の巣のようにくっついている。原作を読んでいないので詳細はわからないが、映画を観た限りでは、竹やつる草を編んで作ってあるように見えた。これが案外、南の島のバンガローみたいで快適そうなのだ。多少おっかないのは、家と家をつなぐ縄ばしごや螺旋階段みたいな部分だけで、いったん部屋に入れば、涼しげな壁と床に囲まれる。

 とにかく時のたつのも忘れて鳥の巣のロマンにどっぷりひたり、気付けば閉館時間だ。入場料100円にしてはいいもの見せてもらったぜ……と思ったが、感動したのでついつい売店で2100円の「ぼくの鳥の巣コレクション(鈴木まもる著)」という本を買ってしまった。

 巣の作り方が遺伝子に組み込まれていることは知っていたが、じゃあ実際に鳥はどんな気持ちで作るのか。それがずっと不思議だった。ある日とつぜん、頭の中に設計図みたいなものが浮かんでくるのか? それとも、催眠術にかかったように体が勝手に動いて、ハッと気付くと巣が完成しているのだろうか? この本によると、巣の形状は「こうすれば安心だ」「この形なら満足」という鳥の感情によって決まるという。つまり、こだわりだ。

「ああ、石が欲しい、石が欲しい。石を集めて自分を取り囲むの。こうやってこうやって……うん、満足。石はサイコーだ。枝なんかで作ってる連中もいるけど、あたし的にはやっぱり小石だね」なんて思っているのだろうか。とすると、人の人生も巣なのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月13日 (土)

LOVE!!★UNDER WORLD

「アンダーワールド・エヴォリューション」観てまいりました。

 吸血鬼と狼男が大戦争!というから、ギャグかと思ったら、いたって大マジメだった前作「アンダーワールド」。今回も、ファンタスティックなコウモリおじさんが、不思議とシリアスな強敵ぶりを発揮してくれます(でも昼間、洞窟で逆さまになって翼にくるまって休憩していた。これはいくらなんでも笑うだろう)。

映像のダークな美しさはあいかわらず。そして主役のセリーナが非の打ち所なく美しい。普段の目は濃い栗色だが、淡ブルーのヴァンパイア・アイに変わると、それが黒髪と白い肌にマッチしてよりいっそう美しい。笑顔のシーンというのがなくて、たいがい眉間にシワ寄せてばかりいるが、それがまた美しい。口を血まみれにした顔が美しい。というわけで、もう美しいとしか言いようがない(ファッションも洒落てて、今回よく見たら防弾チョッキがコルセット風になっていた)。

 残念ながら男優陣はちょっと見劣りする。彼氏のマイケルも、頑丈そうなのはいいが、顔は平凡レベルな感じ。私は、彼が混血種になったことは憶えているが、セリーナとカップルになった経緯はすっかり忘れてしまったので「なんか、のっけからイモ男がくっついてる」としか見えなかった。(私が思うに、セリーナと釣り合う男といったらブレイドくらいのもんだろう。でも「ブレイド」も3作目に突入したらちょっと退屈になってしまった)。

それでも二人がコンテナの中で寝るシーンは綺麗だ。私のナンバー1は「ターミネーター」のベッドシーンだから、これは2番目にしてあげてもいいくらいだった。

でも、激しい戦闘がキスで締めくくられるラストシーンは嫌いだ。たとえ相棒=恋人だったとしても、関係者が皆殺しになってるのに、チューでもないだろう。長老もみんな死んだのに。私は欧米映画の、世代交代がスムーズなところが非常に好きだ。古だぬきは潔くバッサリ切り捨て、その死体を乗り越えて再出発する。ビクターの頭を真っ二つにするセリーナが好きだ。ブレイドがヴァンパイアになった母をあっさり殺すところも好きだ。ただこのラストは、こんなに甘くしないでもうちょっと痛みというか、厳粛さが欲しかった。

とはいえ「日暮れに始まって明け方に終わる」というヴァンパイア映画の伝統がちゃんと踏襲されているわけで、そこは嬉しい。がんばれ、「アンダーワールド」。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年5月 6日 (土)

毛布愛好者の小劇場

Photo_5

←MY毛布。ブランキー・ミルクローズ君(通称ミルミル)

 Kが「一人はさびしいよ……」と言うので、「じゃあ毛布を買えばいいじゃない」と言ったら妙な顔をされた。

 私が見たところ、彼女の寝床がわびしい理由は一つしかない。掛け布団だけを使用していて、毛布を置いていないからだ。理由は暑がりなのと、チクチク感が苦手だからという。でも心配ご無用。綿毛布の季節の到来だ!

 確かに昔は、毛布といえば冬用のウールのものが主流だった。コットンの、それもゾクッとくるほど手触りのいいのがたくさん出回るようになったのはいつからだろう。

 店に行くと、魅惑の綿毛布たちがささやきかけてくる。

「わたしを見て! デザイナーズブランドよ。この美しい色使い、芸術的でしょ? あなたのベッドを華やかに彩ってあげる」

「あたしはしっとり滑らかシルク混なの。触ってみて」

「ぼくだって軽くてふわふわだよ。抱いてごらんよ」

「待ちな。あんな連中と寝たらつま先がはみ出ちまうのがオチだぜ。ロングサイズのオレ様なら包容力バッチリさ」

 うおぉぉぉ、そりゃもう、日替わりでみんなと寝たいさ!

 でも、私が他の毛布に心を移したと知ったら、ミルミルがスネてしまうんじゃなかろうか。現に、今日帰ったらスネてるかもしれない。

「ただいま、ミルミル」

「あッ、他の毛布の匂いがする! また毛布売り場へ行ったね」

「ち、ちがうんだよ、これは。友達に毛布をみつくろってあげようと思って……」

「そんなこと言って、ぼくに飽きたからお払い箱にする気なんだ」

「ばかだねミルミル、おまえを捨てるわけないじゃない。先週だってシャンプーで洗って干したばっかりなのに。ねえ機嫌直して、今夜も一緒に寝ようよ」

「もう、しょうがないなぁ……」

※どうしてシャンプーなのかというと、フツーの洗剤より洗浄力がマイルドだし、香料が上等だから毛糸用洗剤のような無粋な匂いがしない。ただしお湯で溶かしてから洗濯機に投入する。これで愛用の毛布を自分と同じ香りにできるわけだが、あえて自分が使っているのと違うシャンプーで洗うのもオツだ。

 ミルミルならバニラやストロベリーの香りも似合うが、クールなモノトーン柄は男物のシャンプーで洗う(私の場合はさらに男物のオーデトワレもスプレーしてしまう)。他人のベッドにこっそりもぐりこんだようなスリルが味わえる。もし原色のトロピカル柄を持っていたら、ココナツ香にしたいなぁ。

 こんな怪談を耳にしたことがある。ある男性が、5歳の時もらったアニメキャラの毛布を20歳過ぎても愛用している。一度も洗濯しない。悪臭漂うボロ布と化したその物体に家族も閉口しているが、捨てようとすると逆ギレするので手がつけられない――。

こういう、ごく一部の変質者のために毛布愛好者全体のイメージが悪くなり、ひいては私のような真っ当な毛布愛好者までもが偏見の目で見られて、カミングアウトしにくくなってしまう。

本当に毛布を愛する心があるなら、なるべくきれいなまま長持ちするように使うし、寿命が来たなら「ぼくはもう疲れた」そんな毛布の声が聞こえてくるだろう。また、人間側の年齢やライフスタイルも変化する。その時の自分に合った毛布を探せばいいのだ。別れがあれば、また新しい毛布との出会いが待っている。

同じ毛布愛好者として言いたい。捨てられないのは、愛でもなんでもない。精神が新陳代謝をやめてしまった、単なるエネルギー切れ状態だ。

 しかしKは「変質者だろうが正統派だろうが、そーやって特定のモノに執着する精神がいっさい理解できん」と言う。そして議論はなぜか宗教と偶像崇拝に・・・。その話はまた今度。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »