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2006年7月16日 (日)

暑くなると考えることシリーズ①

Photo_10  毎年、暑くなると考えること……それは、残酷さと意地悪の違い。

私は残酷な事や、残酷な話が好きだ。しかし、意地悪な人は嫌いだ。

「残酷」という性質には、どこか純粋さが漂う。たとえば、「子供の残酷さ」という。「無邪気な残酷さ」という言葉もある。

「残酷」は、神聖さや、高貴な香りすらまとっている。マリー・アントワネットは「パンがないならお菓子でも食べれば?」と言ったという。別に王妃ほどの大物でなくとも、当時の貴族は今の常識では考えられないほど残酷だっただろう。

悲劇的な運命にあった人は「神様は残酷だ」「人生は残酷だ」という。そこには「人知を超えたもの」「なんだかわからないけど恐ろしいもの」というニュアンスがある。

しかし、「意地悪」には純真さのかけらもないし、もちろん無邪気でもない。そして、なんとなくセコい。意地悪は、極端に保身を気にしたり、つまらないことで嫉妬したり、ようするに臆病なところから発している。

「意地悪な人」というのは、「残酷な人」に比べると、意思の力も覚悟も格段に劣る気がする。ちょっと責められると、さっさと前言をひるがえしそうな感じがある。主義も哲学もなんにもなくて、ただ目先の利益だけを考えていそうな、ちょっと軽薄な感じがする。「意地悪」は、より庶民的。小市民的だ。

意地悪であるということは、残酷であるよりもずっと人との関わりを必要とする。残酷は一人でもなりたつが、意地悪は相手がいなければなりたたない。地球最後の人間になってしまったら、意地悪も何もない。しかし、地球最後の人間になったのに、悲しみもせず、懐かしく想う人もおらず、「べつにいいや」と思うなら、それはもはや意地悪を通り越して「残酷」といえる。

そんなわけで、意地悪はカッコ悪い。

そこで、「どうも私は最近、意地悪になってきたらしい」という人は、これでもかというほど残虐映画を観たらどうだろう。本物の、壮絶な残酷さに触れれば、自分のちっちゃな意地悪なんかはバカバカしくなってくること請け合いです。

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