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2006年9月

2006年9月24日 (日)

黄金の球体発見

Photo_17  久々に遠出したら、とある文房具屋の店先にこの金のボールが売っているのを見つけて、思わず買ってしまった(片手に乗るサイズ。127円)。

私は遠い昔、これとまったく同じボールを持っていた。そしてちょっと思い出のある品なのだ。

 

「かえるの王子」というおとぎ話がある。その冒頭で、お姫さまが金色の玉で遊んでいる。そして、その玉をあやまって沼に落としてしまうところから話が始まる。

他にも黄金色の球体が出てくる話はいろいろある。あるときは姫君や王子の持ち物であり、あるときは褒美の品、魔法の道具、あるいは運命の転換を告げるものとして登場する。

私はそういうおとぎ話が好きだった。それはまだ小学生にもならない頃のこと、私は早くもファンタジーな子供だった。

ある日、近所で遊んでいたら、年上の少年が「キンタマ」と口にしているのを耳にした。即座に黄金色の球体を思い浮かべた私は「えっ、金の玉!?どこにあるの?ねえねえ」とせっついた。しかし相手は口をつぐんで答えないし、いくらせがんでも見せてくれない。(この現場を偶然母親に目撃されたため、その後何年も家族の間で物笑いの種になり、悔しい思いをすることになる。しかし、この時の私はまだ真相を知らなかった)。

ただ私はこの現実世界にも金の玉が存在すること、そして誰か(たとえばあの近所の兄ちゃん)がそれを持っていることを知ったのだ。

数日後、この年上の少年が、公園でボール遊びをしていた。私は隅の方にいたが、ふと地面を見ると、夕陽の中であざやかに輝く金色の玉が落ちているではないか。それはただのゴムボールに過ぎなかったが、私にはまさしく宝物に見えた。

夕方なので、みんな遊び道具を片付けて帰ろうとしていた。私は彼を追っていって、「これあなたの金の玉でしょう」と言った。だが彼をはじめ、そこにいた子は全員「自分のボールではない」と否定した。

彼は、私が金の玉を欲しがっているのを知っていたので「いいよ、おまえがもらっちゃいなよ」と言った。私もそうしたかったが、ためらった。こんな貴重なものをもらっていいのだろうか。本来の持ち主が現れたらどうしよう。だが、彼の友人たちも「大丈夫だよ、持って帰っちゃいなよ」と言う。

私は結局そのボールを持ち帰り、長いこと大切にしていた。秘密を握っているような、ちょっとスリリングな気分だった(というのは、最初に金の玉について尋ねたとき、彼がやけに出し渋ったためだろう)。持っているだけで、物語の主人公になれたようでハッピーだった。

そして時を経て今また巡りあえた宝物なのです。

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2006年9月17日 (日)

黒い裏庭

Book12  家の本棚で発掘した本。「日本の民話」全12巻から成るらしいが、なぜかこの第10巻「残酷の悲劇」だけがひっそりと他の本の中に埋もれていた。

 昭和48年発刊で、おそらく私の誕生以前に親のどちらかが購入したもの。子供の存在を想定せずに買われたものだけに、おもしろい。読み出したら止まらない。私はなんとなく「日本の民話はつまらん」と思っていたが、どうやら「よい子の日本民話集」みたいなのしか読んだことがなかったらしい。(昔TVアニメで「日本昔話」をやっていたが、これまた子供心にはつまらなかった)。

これはとにかく、みもフタもないのが良い。とことん踏みつけにされた農奴たちの物語なだけに、いい領主とか、善良な殿様などは一人も登場しない。そして、想像を絶する飢えと貧しさの中で発生するブラックな笑い。

ここには日本の暗黒面が広がっている。

どれもおもしろいのだが、中でもちょっと異色のものを、あらすじだけ紹介すると、

(九州地方の話で)「しゃれこうべの歌」。

万三と千三という2人の男が、上方へ出稼ぎに行き、3年間あれこれ下働きを引き受けた。仕事は厳しく、千三は途中でいやになり、チンピラのようになってしまう。万三はコツコツ働き続け、小金がたまったので、故郷へ帰ろうとする。そして無一文の千三のために着物や家族への土産を買いそろえてやる。

2人で旅立ち、やがて山にさしかかって一休みした。千三はいきなり万三の首を切り落とし、彼の金をすべて奪って一人で実家に帰る。3年の間遊び暮らして金が尽きると、また出稼ぎに行こうとした。

前と同じ山道にさしかかった時、万三のどくろが現れた。千三は逃げたが、どくろが追ってきて「昔のことは水に流して、一緒に上方で商売しよう」と言う。そこで、どくろが歌い、千三が客を集めて金を取るという、見世物小屋のようなことをやって大儲けする。

これが評判になって、ついに殿様に招かれた。ところが、そのときに限ってどくろが歌わない。千三は「インチキ野郎」と罵られ、殿様に切り捨てられてしまう。そこでやっとどくろが口を開き、「自分の想いが叶った」と歌う。

この話は、色気ゼロにもかかわらず、なぜか「愛と性の残酷」の章に入れられている。

この本では民話を4種類に分けており、他には「貧しさの犠牲」「家を巡る悲劇」「権力の残酷」の章がある。

「貧しさの犠牲」には旅人を殺して食らう話や、赤ん坊を崖下に捨てる話が並ぶ。とりあえず食べ物に困っていないこの2人は、比較的恵まれた人種ということになってしまう。「権力の残酷」にしても、だまされたと言っていきなり斬りつけてくる殿様程度は、まだかわいい方である。

というわけで、他に行き場がないのでやむなく「愛と性の残酷」に収録されたのかもしれない。

万三の人間性は、ちょっと複雑で魅力的だ。マジメなだけのつまらない男かと思いきや、やくざ者になった千三と付き合い続けて裏切られる。どくろになった後は芸人として花開き、「たいへんうまく歌った」とある。

山道で千三に再会した時も、普通ならその場で頭突きでもして終わりだ(他の民話はそういう唐突なエンディングが多い)。ところがこの万三、決して自分では手を下さない。いったん喜ばせておいて突き落とすという、周到なテクニックも使う。なにか楽しんでいるようでさえある。

やはり「愛と性の残酷」なのか。万三……。

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2006年9月10日 (日)

とうとう観てしまった「X-MEN ファイナルディシジョン」

MenⅩ-MEN指輪(銀粘土で自作したもの)。

これからしばらくは、何を楽しみに生きていいのかわからない。なぜかというと、1ヶ月以上前から楽しみにしていた「Ⅹ-MEN ファイナルディシジョン」を、今日観てしまったから……。

あいかわらずハイテンションで、シリーズごとに状況が変わって飽きない。そしてなにより、ミュータント(というのは、突然変異で特殊能力をもった人々)をめぐって政府と企業と世論がぶつかり合う、あのおもしろさも健在なのです。

(ふと思ったのは、学園の生徒も、チャールズが入学を勧めるため家庭訪問しているのも、明らかに中流家庭の子たち。それにひきかえ、マグニートーのカリスマ性や過激論にほだされてテロリスト状態になるのは、教会の廃墟に集まっていた下層階級の人々だ。側近として、アジア系やヒスパニックのパンクファッションの子たちもいる。なにもパンクだから悪人なわけじゃなし、ミュータント学園にパンクがいてもいいと思う)。

そしてミスティーク激LOVEの私は、もちろん涙、涙。ひどい。あんなのミスティークじゃない!(そういえば、今までどんな顔の女優が演じているのかまったく知らなかった。初めて本来の顔を見た上に、全裸までおがんでしまった)。「美しい女だったのに……」というマグニートーのセリフに同感。私だってあのミッドナイトブルーの皮膚と、豹のような金色の目を愛していたのに。

さらにショックなことに、マグニートーの居場所を密告するという、つまらんやり方で仕返しした。こんなのは彼女らしくない。攻撃する時も誘惑する時も、とにかく即アクション、ダイナミックに身体で動くのがミスティークだったのに! ミュータントの力を失ったから、そんな方法でしか復讐できないというのだろうか。しかも、その後ひっそりとスクリーンから消えた……。

というわけで、また観に行くかもしれないほど楽しかったのだが、今日は私にとって、愛しのミスティークのお葬式でもあるのです。

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2006年9月 4日 (月)

曾祖母伝説の謎

Photo_16  子供の頃から、繰り返し聞かされた怪談がある。それはおばあちゃんの母、つまり私のひいおばあちゃんに当たる女性の話だ。すべて実際にあった出来事である。

ひいおばあちゃんが10歳の頃、相次いで両親を亡くした。土地も財産も親戚の人々に騙し取られ、かろうじて残された屋敷で14歳になる兄と寂しく暮らしていた(家政婦のような人はいたのかもしれないが、定かではない)。

悲しいからイタコ(霊媒師)のところへ行って、死んだ母を呼び出してもらった。するとそのイタコが、母しか知るはずのない家のことを、こまかく語ったり、指示したりする。たとえば、どの部屋の箪笥の何段目にこういう色柄のキモノが入っている、などと言う。急いで家に帰ると、本当に言われた場所にその色柄のキモノがある。

喜んだひいおばあちゃんは、小遣いを持って何度もそのイタコに通い、母の霊と対話していたという。

というのが、我が家に伝わる怪奇伝説だ(祖母などはこれをまるで「おしん」のごとく、実にウェットに、ドラマチックに語ったものだ)。

一つ言いたいのは、私は決して霊能力者を擁護しない。わらにもすがる思いの孤児から霊視と称して金を取るとは、なんということだ。しかし当時のイタコとは、全盲ではないまでもほとんど見えなかったり、何かハンディキャップのある人がやっていたそうだ。彼女も食べていかねばならないから仕方ない。それに子供が通えるくらいだから、そう高額でもなかっただろう。

不思議なのは、どうしてそのイタコが、他人の家のことをそんなにこまかく言い当てることができたのかだ。

おもしろいことに、彼女はTVに出てくる霊媒師のように「兄と協力してしっかり生きていきなさい」などと、抽象的なことは言わない。助言の内容が非常に具体的なのだ。べつに抽象的なことや哲学的なことを言われたからありがたみが増すというわけではないが、家事雑事についてあれこれ指示する霊というのも、なにやらせせこましい。

考えてみれば、お説教や、ありがたいお話を聞きたいなら、お坊さんのところへ行けばいいのだ。霊媒師とはより庶民的なもの、より生々しく個人の生活と密着したものだったのではないだろうか(現代のTV霊媒師はそのへんの境が曖昧になっていて、お坊さんのようなことを言ったりする)。

そのひいおばあちゃんも、私が生まれる前に亡くなった。だから直接話をきくことはできなかった。この話の真相は、もう誰にもわからない。

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