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2006年10月

2006年10月29日 (日)

韓国アニメ映画祭

Miira  今日はアニメ映画祭「韓国アニメーション最新事情」を観るため、多摩センター駅へ。(写真は駅前でやっていたハロウィンのカボチャコンテスト。中央の棺には、ミイラがおやすみになっております。ステキ///

 たくさんの短編アニメ映画がカテゴリーごとに上映されていて、好きなクレイアニメも観られたし、芸術的なのもあり、哲学的なのもありで、傑作もいっぱい。地味で抽象的な感じのばかりだったらヤだな……と心配していたが(そういうのもあったけど)、起承転結のある明快な作品が多くてよかった。

 とくに音声が凝っていて、どんな小さな動作にもいちいち衣擦れの音をつけたりする。声優も魅力的で、生まれて初めて韓国語がセクシーに聞えた。

そしてイ・ミョンハ監督の「存在」。個人的に衝撃作。

このアニメは、捨てられた猫がバーに座って、偶然居合わせた犬にグチっている。それも人間の言葉ではなく、あくまでも猫の鳴き声でゴチョゴチョうにゃうにゃ言う。何を言っているかは字幕を見なければわからないのだが、ものすごく感情がこもっている。

ちなみに犬の声も犬らしくて、なぜ犬語と猫語で言葉が通じているのかは謎。そして犬の言葉に腹を立てた猫が、ついに大絶叫……というドラマ。とにかく、あの猫の役をやった人はすごい(それとも本物の猫の声を編集したのだろうか?)。

「バットマン」のキャットウーマン大好きな私。でも、こんなに不幸な役回りでも、バーでグチグチ言ってても、やはり猫は犬より輝いて見える――と実感(単に趣味の問題!?)

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Doll そして、帰りに駅前のデパートで買ったマスコット。呪いの人形……ではなく、自分の災難をかわりにかぶってくれるというお守り人形シリーズ。

帰ってきてよく見たら、パッケージにキャラクター名や説明が書いてなかった。囚人服のやつが「SM」という名だったのは憶えてるんだけどな……。

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2006年10月23日 (月)

災難にあってもかわいそうと思えない。その過程とは、

1015d ←風呂場の怪奇(頭の後ろから何かがのぞいています)

前にちょっと書いた怪奇短編「猿の手」(W・W・ジェイコブズ)とは……

 この怪談は有名なので、内容をきけばたぶん知っている人が多いと思う。そのあらすじは、

 ある夫婦が、3つの願いを叶えてくれるという猿の手のミイラを手に入れた。2人は「200ポンドが欲しい」と願った。すると翌日、息子が勤務先で機械に挟まれて死に、会社が補償金として200ポンドをくれた。

 夫婦は今度は、息子を生き返らせて欲しいと願った。するとその夜、ゾンビとなった息子が墓から蘇ってきた。怯えた夫婦は、息子をもう一度死なせて欲しいと願い、それは叶えられる。

私も、もともとこの大筋だけ知っていた。最近になって、初めて短編小説をじっくり読んだ。それでわかったのは、この話が決して「善良な夫婦が思わぬ大災難にあうかわいそうな話」ではなかったことだ。

まずこの夫婦は、ひとり息子と3人で、田舎の一軒家に住んでいる。家族の仲は円満だが、やや退屈気味で、夫は客が来ないことをぼやいている。

そんなところへ、夫の古い友人が遊びに来た。彼はインド帰りの軍人で、色々とおもしろい話をしてくれる。そこで「猿の手」の話が出て、彼は現物を取り出して見せる。

夫は好奇心にかられて猿の手を欲しがる。しかし友人は最初は断り、その危険性について再三警告もしている。一度は暖炉の火に投げ込んだりもするが、夫がわざわざそこから引っ張り出して、強引に譲ってもらうのだ。

さて友人が帰った後、試しに願い事をしてみようということになる。

ところがなんとこの夫、「何を願ったらいいのかわからんなあ、実際。欲しいものはもう、みんな持ってる気がする」と、小憎らしいセリフを吐く。私はここでカチンときて、もうこの夫婦が気の毒とは思えなくなった。

どうしてかというと、たとえば、

「自分の家庭には何の不満もない」と言いつつ、不倫だ夜遊びだとハッスルしているオッサンがいたら、「何なのこの人」と思うだろう。真剣に恋愛しようとしている人も大勢いる中へ、ひやかし半分のようにして踏み込んでくるわけだから、どこかうさんくさい。

それと同じで、「願をかける」というのも本来は一途で、真摯であるべき行為なのだ。ところが、この一家はあくまでも遊び半分である。元々悩みもないので、あえていうなら家の借金を返すための200ポンドがあればいいということになる(ちなみにこの願い事を提案したのは、後に死ぬことになる息子である)。

多分この夫婦は、大成功したこともない代わりに、大失敗したこともない。あまり野心もなく、必死で何かを願ったこともない。そこそこの幸せに満足し、平穏無事に生きてきた。

だから年はとっていても、苦労知らずでウブなところがある。ウブだから非常に危うい。息子は若いから仕方ないが、夫婦も息子と同じくらいう浮ついた無防備な雰囲気で、事実上この家には年長者がいない感じである。

この夫婦は、必死で何かを求める、ということの悲しさや怖さを知らない。知っていれば、こんな軽い態度はとらない。猿の手の魔力を信じないのはいいとして(多分私も信じない)、少なくとも、そういうまじないの道具を造らずにいられなかった人の想いは、もうちょっと思いやってくれてもいいのに。

どうも私は「こいつらズルイ」と思ってしまう。

私はキリスト教徒ではないが、もしかしてキリスト教の人には、「本来ならキリストの神に祈るべきところを、東洋から持ち込まれたあやしげなまじない道具なんかに手を出したため、天罰が下った話」と見えるのかもしれない。

ただし、猿の手が悪魔や黒魔術に関係あるとは書いていない。それがなぜ願い事をかなえるのかという由来について、インド帰りの友人はこう語っている。

「老いた苦行僧が魔法をかけたのです。大変に徳の高い人でした。人間の生涯は運命に支配されているのだ、その運命に逆らおうとする者はひどい目に遭うのだということをその方は示そうとしたのです」

息子が死んでしばらくすると、妻が、猿の手に息子の帰還を願おうと提案する。

夜中にノックの音がして、妻は「あたしのぼうや」と叫んで迎えに出ようとする。

この妻は平凡な主婦だったかもしれないが、一歩間違えると狂ってしまいそうな激しい母性愛を秘めている。しかし夫にはそういう強烈な感情があるわけでもなく、息子の幽霊が来てしまうのではないかと怯えて、ただ震えている。どこまでも中途半端なおじさんである。

私の予想と違って、具体的にゾンビの描写はなかった。恐怖にかられた夫の想像と、ドアを叩く音がした、とあるだけだ。そして最後の、ドアを開けた後の描写はひたすら悲しい。なかなか文学的な怪談なのです。

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2006年10月15日 (日)

霊感について考える

Ageha  ある晴れた日の午後、Iと2人で、大通りの下を横切る地下通路を歩いていた。その通路に入ったとたん、足元から何かがサーッと左右に分かれて、逃げていく気配がした。明るいところから急に影の中に入ったため、何なのかはハッキリ見えない。

 こういう場所は時に男の子のたまり場になって、スナック菓子を食べこぼすから、虫かネズミがいる可能性がある。私はそういう意味で「何かいるね」と話しかけた。Iも「うん」と頷いた。

 それからまた話題を変えて、Iに向かって喋りながら歩いていた。そのうち、右の首筋がチクチクしたので、何気なく髪の毛を払いのけた。また少し進むと、今度は左のブーツが重いような、靴底がベタつく感じがしたので、脚を蹴り上げるようにしてちょっと振った。

 さてその地下通路から出てくると、Iが「あそこには霊がたくさんいた」と言い出した。どんな霊なのかときくと、「小宮の右肩に乗ってきたやつもいる、左足にしがみついていたやつもいる。私にはちゃんと見えていたのに、小宮が無造作に蹴散らして歩くから、みんな逃げてしまった」と言うのである。

 「それなら、私たちが通り過ぎた後また戻ってきているかもしれないから、ちょっとのぞいて携帯で写真を撮ろう」と言った。

 すると突然Iが大声で「ダメッ!」と叫び、私の手を掴んで、一目散に逃げ出した。つられて私も走ったが、おかしくてしかたない。見るとIも笑っていた。ちょうどベンチがあったので腰掛けて、2人で笑い転げた。

 そんな具合に、霊感人間と一緒にいるとおもしろい。

彼らはストーリーテラーであり、エンターテナーである。退屈を中和し、夜を盛り上げてくれる、楽しくて貴重な人々なのだ。

 ただ、「自分は霊感が強い」とあんまり主張する人は、ちょっとあつかましい人でもある。

 たとえば、私がホラー小説を書いたとする。ホラー大賞に応募した。ボツだった。さらに、友達に見せたら「怖くないよ」と言われた。ショックだ。落ち込んだ。今度はどうしてやろうかと考える。

 ところが霊感人間たちは、こういう挫折を何一つ経験することがない。たとえ誰かに「そんな話怖くないわ」と言われたとしても、「でもこれは実際あったことなの。そして私はその時怖かったの」と言えばそれで済んでしまう。

霊感は形にできない。証明できない。競争もない。霊感の強さを測定する機械というものはないし、霊感教習所もないし、霊感証明書もない。すべてが自己申告だ。肉を食べないとか、滝に打たれるとか、何か修行している人だけが霊を見られるという決まりがあるわけでもない。禁欲どころか3人の子持ちで、週に一度は焼肉食べ放題の店に通い、大酒飲みで、そのくせ堂々と「私は霊感が強い」と言っている主婦もいる。

彼らは霊感を、ひたすら「生まれつき」もしくは「あるきっかけで突然開花した」と主張する(たまたまある霊と「波長が合った」とする説もある)。

こんな怠惰な特技は他にない。絵を描くにも、ギター演奏、サッカー、漫才やコントをやるにしても、どんなに生まれつきの才能があっても、やはり練習が要る。ところが霊感に訓練は必要ない。「自分には霊感がある」ということはつまり、「私は何の努力もしてないけど、どうやら生まれつき特別らしいの」という、あつかましい主張なのだ。

もう一つ、霊感の使い方に関する疑問がある。

私の身近で「幽霊を見た」と語る人の多くは、彼らにとって何か意味のある存在を見ているわけではない。ネイティヴ・アメリカンの伝説のように、「霊が自分を導いてくれる」などという前向きさはない。なんだか知らないが下等生物を見て、そいつは彼らの人生に何の恩恵ももたらさない。

ただし、「己の霊感のおかげで間一髪事故を免れた」と主張する人々はよく見かける。

しかし私は、霊感とは本来、芸術のために使うものと思っている。「オペラ座の怪人」のクリスティーヌは「私には音楽の天使がついていて、歌を教えてくれる」と言う。後に、実はその正体は怪人だとわかるのだが、そういう天使なら私も会いたいし、いたらいいなと思う。「紫式部の霊が耳元でささやいてくれたので超大作が書けた」なんていう人がいたら、笑ってしまうが、こういうのは霊感の正当な使い方だと思う。

それに対して、「危険を回避する」などというのは消極的で後ろ向きな使い方に見える。人生に危険はつきものだから、チマチマ避けても仕方ないではないか。

たとえば、「己の霊感を生かして大女優になったが、危険を予知することはできなかったため、40歳で飛行機事故で死亡」という人生だってアリだと思う。それなのに彼らは、せっかくの第六感を、運を切り開くためではなく、ひたすら保身のために働かせているのだろうか。

ということはつまり、「大女優になんかならなくていいから、とりあえず安全に長生きしたい」という考えなのだろうか? そうすると、「危険を予知できる」というのは一見すごいようだが、実は臆病で平凡な人、という気がしてくる。

そんなわけで、霊感を売りにするのはいろんな意味で破廉恥なのだが、それでもやっぱり霊感人間はおもしろい。変人やアヤシイ人間も少しはいないと、世の中つまらない。また、彼らには「変人は変人でも、比較的無害な変人」という側面もある。そして、なぜか妙に自信家な人が多いので、ちょっとくらい笑っても大丈夫だ。幽霊話を楽しもう。

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2006年10月 8日 (日)

「憑かれた鏡」エドワード・ゴーリー編

Book1_2  最近の深夜のお供は……この「憑かれた鏡」。

「エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談」なんぞと言われたら、ゴーリーも怪談も大好きな私には涎もの。背表紙を見た瞬間、買うことに決めた。

もちろん挿絵もエドワード・ゴーリー画。どの絵もかわいい。帯には「かなり怖い挿絵つき」とあるが、私はこの本の挿絵はかわいいと思う。暗く、物寂しく、なおかつ愛らしい。たとえば表紙の、黒マントの幽霊の後ろ姿は、なんだか絵の中に飛び込んでいって後ろから抱きつきたいような、すてきな感じなのだ。

怪奇・怪談というのはホラーと違って、必ずしも怖くない。でもこの本に集められた怪談は、さすがエドワード・ゴーリーが選んだものだけあって、ダークで後味が悪いのが多い。そして、主人公たちがわりあい庶民的(19世紀の英国怪奇小説には、主人公が貴族で、人里離れた古い城に住んでいる……系の設定も多いのだが、そこまでゴージャスではない。なんというか、レトロモダン)。

 もちろん定番のお屋敷ものや、トンネル幽霊ものもあるし、ブラム・ストーカー(「吸血鬼ドラキュラ」)やディケンズ(「オリバー・ツイスト」の原作者)など、大御所が名を連ねる。個人的におもしろかったのは、W・W・ジェイコブズの有名な「猿の手」。あらすじだけ知っていたのだが、初めて現物を読んだ。どんなお話かは、またいつか!

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2006年10月 1日 (日)

雨の日にレディ・イン・ザ・ウォーター

_009  好きなM・ナイト・シャマラン監督の「レディ・イン・ザ・ウォーター」を観に行ったらば、あまり怖くなくて不満だった(ポスターを見ただけでソッコー駆けつけたため「ほの暗い水の底から」や「ギフト」みたいなものを期待してしまったのがいけなかった。リサーチ不足)。

私はシャマラン作品では「ヴィレッジ」と「シックス・センス」が同じくらい大好きなのだが、この人が本当にオカルトを愛しているのかどうかやや謎で、今回みたいなのを見ちゃったりすると、もしかしてとんだハッピー野郎じゃないのかという気もしてくる……。

一番エスプリが効いている人物は多分、B13号室の映画評論家のオッサンでしょう(この監督、よほど映画評論家が嫌いなのか、一人だけ怪物にやられた)

 見どころは、プールの排水溝(?)にあるストーリーちゃんの秘密基地。壁画を描き、人間がプールサイドに置き忘れた物を集めて飾っている。小物は伏せたコップに入れ、石を乗せて浮き上がらないように工夫。穴みたいなところに住んでようが、金がなかろうが、とりあえずインテリアを求める精神! こういう「女の子の部屋」の作り方を見ると、少女の精神がわかる人なのかな、と思う(そういえば娘がいるのか?)

 そこで私も帰りに、なんかいいモノ落ちてないかな~と思いながら歩いたが、何も落ちてなかった。しょうがないから、100円ショップで植木鉢を買った(写真)。植えてあるのはもともとあったサボテンの子株を株分けしたもの

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