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2006年10月15日 (日)

霊感について考える

Ageha  ある晴れた日の午後、Iと2人で、大通りの下を横切る地下通路を歩いていた。その通路に入ったとたん、足元から何かがサーッと左右に分かれて、逃げていく気配がした。明るいところから急に影の中に入ったため、何なのかはハッキリ見えない。

 こういう場所は時に男の子のたまり場になって、スナック菓子を食べこぼすから、虫かネズミがいる可能性がある。私はそういう意味で「何かいるね」と話しかけた。Iも「うん」と頷いた。

 それからまた話題を変えて、Iに向かって喋りながら歩いていた。そのうち、右の首筋がチクチクしたので、何気なく髪の毛を払いのけた。また少し進むと、今度は左のブーツが重いような、靴底がベタつく感じがしたので、脚を蹴り上げるようにしてちょっと振った。

 さてその地下通路から出てくると、Iが「あそこには霊がたくさんいた」と言い出した。どんな霊なのかときくと、「小宮の右肩に乗ってきたやつもいる、左足にしがみついていたやつもいる。私にはちゃんと見えていたのに、小宮が無造作に蹴散らして歩くから、みんな逃げてしまった」と言うのである。

 「それなら、私たちが通り過ぎた後また戻ってきているかもしれないから、ちょっとのぞいて携帯で写真を撮ろう」と言った。

 すると突然Iが大声で「ダメッ!」と叫び、私の手を掴んで、一目散に逃げ出した。つられて私も走ったが、おかしくてしかたない。見るとIも笑っていた。ちょうどベンチがあったので腰掛けて、2人で笑い転げた。

 そんな具合に、霊感人間と一緒にいるとおもしろい。

彼らはストーリーテラーであり、エンターテナーである。退屈を中和し、夜を盛り上げてくれる、楽しくて貴重な人々なのだ。

 ただ、「自分は霊感が強い」とあんまり主張する人は、ちょっとあつかましい人でもある。

 たとえば、私がホラー小説を書いたとする。ホラー大賞に応募した。ボツだった。さらに、友達に見せたら「怖くないよ」と言われた。ショックだ。落ち込んだ。今度はどうしてやろうかと考える。

 ところが霊感人間たちは、こういう挫折を何一つ経験することがない。たとえ誰かに「そんな話怖くないわ」と言われたとしても、「でもこれは実際あったことなの。そして私はその時怖かったの」と言えばそれで済んでしまう。

霊感は形にできない。証明できない。競争もない。霊感の強さを測定する機械というものはないし、霊感教習所もないし、霊感証明書もない。すべてが自己申告だ。肉を食べないとか、滝に打たれるとか、何か修行している人だけが霊を見られるという決まりがあるわけでもない。禁欲どころか3人の子持ちで、週に一度は焼肉食べ放題の店に通い、大酒飲みで、そのくせ堂々と「私は霊感が強い」と言っている主婦もいる。

彼らは霊感を、ひたすら「生まれつき」もしくは「あるきっかけで突然開花した」と主張する(たまたまある霊と「波長が合った」とする説もある)。

こんな怠惰な特技は他にない。絵を描くにも、ギター演奏、サッカー、漫才やコントをやるにしても、どんなに生まれつきの才能があっても、やはり練習が要る。ところが霊感に訓練は必要ない。「自分には霊感がある」ということはつまり、「私は何の努力もしてないけど、どうやら生まれつき特別らしいの」という、あつかましい主張なのだ。

もう一つ、霊感の使い方に関する疑問がある。

私の身近で「幽霊を見た」と語る人の多くは、彼らにとって何か意味のある存在を見ているわけではない。ネイティヴ・アメリカンの伝説のように、「霊が自分を導いてくれる」などという前向きさはない。なんだか知らないが下等生物を見て、そいつは彼らの人生に何の恩恵ももたらさない。

ただし、「己の霊感のおかげで間一髪事故を免れた」と主張する人々はよく見かける。

しかし私は、霊感とは本来、芸術のために使うものと思っている。「オペラ座の怪人」のクリスティーヌは「私には音楽の天使がついていて、歌を教えてくれる」と言う。後に、実はその正体は怪人だとわかるのだが、そういう天使なら私も会いたいし、いたらいいなと思う。「紫式部の霊が耳元でささやいてくれたので超大作が書けた」なんていう人がいたら、笑ってしまうが、こういうのは霊感の正当な使い方だと思う。

それに対して、「危険を回避する」などというのは消極的で後ろ向きな使い方に見える。人生に危険はつきものだから、チマチマ避けても仕方ないではないか。

たとえば、「己の霊感を生かして大女優になったが、危険を予知することはできなかったため、40歳で飛行機事故で死亡」という人生だってアリだと思う。それなのに彼らは、せっかくの第六感を、運を切り開くためではなく、ひたすら保身のために働かせているのだろうか。

ということはつまり、「大女優になんかならなくていいから、とりあえず安全に長生きしたい」という考えなのだろうか? そうすると、「危険を予知できる」というのは一見すごいようだが、実は臆病で平凡な人、という気がしてくる。

そんなわけで、霊感を売りにするのはいろんな意味で破廉恥なのだが、それでもやっぱり霊感人間はおもしろい。変人やアヤシイ人間も少しはいないと、世の中つまらない。また、彼らには「変人は変人でも、比較的無害な変人」という側面もある。そして、なぜか妙に自信家な人が多いので、ちょっとくらい笑っても大丈夫だ。幽霊話を楽しもう。

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