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2006年12月

2006年12月29日 (金)

愛しのブルーヴェルヴェット

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今年最後のカフェ PM8:45

「やあ、隣の皿のカノジョ!ぼくはフィッシュフライ・オープンサンド」「わたしアップルシナモン・クリームワッフル。よろしくね」

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PM8:48

「・・・・・・・」

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 時期を過ぎたツリーが好き。

誰のためでも何のためでもなくただ飾ってある感じ。

 無意味に飾りたい 無意味に綺麗でいたい

 

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冬季限定、愛しのMY毛布 ブルーヴェルヴェット君にしばしの別れを告げる。ごめん、連れて行けないんだ……。でも大丈夫、おまえと眠れる夜は、まだあと2ヶ月ほど残ってるはずだから。

というわけで(?)小宮、明日から数日間旅に出ます

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2006年12月25日 (月)

帽子考。どこまで脱帽するか?

Cap

あれは数年前の今日、知り合いにクリスマスイベントに誘われ、ちょっとした出来心で、教会というあのおそるべき館に足を踏み入れてしまった(人は財政難に陥ると、とかく「無料」という点に惹かれて個人的信条をおろそかにしてしまうのだ)。

私が悪魔だから教会が苦手、というわけではない。教会というところは、実際に奇人が徘徊している不気味な場所なのである。

その日は寒かったのと、寝癖を直す時間がなかった(私は軽度のクセ毛である)ので、ニット帽をかぶっていた。

さてイベントが始まるのを待っていたら、後ろに座っていたおじさん(おじいさん?)が私の背中をつつき、それが何か重大なことでもあるかのように「帽子は取りなさい」と深刻そうな小声で注意する。

はっきり言って「教会では帽子を脱がねばならない」というのはエセ規則ではないかと思う。この教会だけのルールなのか、それともこのオヤジが勝手に考え出したルールなのかは知らないが、少なくとも万国共通のものではない。私は欧米映画の中で何度も、ニット帽をかぶったまま教会に参列している人々を見たことがある。ある小説で、礼拝に退屈した少女が周囲を見回し、「毛糸の帽子をかぶった人が何人、毛皮の帽子の人が何人」と数えて気をまぎらわすシーンも見たことがある。

礼拝だけではない。結婚式でも女性は帽子着用のままだ。葬式では、黒いヴェールのついた帽子をかぶっていたりする。もしもあれを「教会の中だから脱げ」といったら変だ。

私の家庭では「女性の帽子は男性の帽子と意味が違い、洋服やアクセサリーの一部と考えるべし。よって屋内で脱ぐ必要はない」ということになっていて、私もそう教えられて育った。

しかし中には勘違いしているのか、それとも西洋文化をよく知らないので、女性の帽子も男性の帽子と同列に扱う人がいる。小型のフェルト帽をかぶったまま彼氏とレストランに入ったら、「帽子は取れよ」といわれたこともある。そのときは気心の知れた仲なので「女性の帽子は男性の帽子とは意味が違う」と説明してわかってもらった。

しかし教会で見知らぬオヤジと言い争うのもいやだから、ここは譲ってやろうと思い、ニット帽を脱いだ。するとこのオヤジ、さも満足そうに「神の家では帽子はいらない」と呟いた。そして彼の横にいたらしいもう一人のオヤジが、感極まったように「ほんっとぉーに、その通りですねえ」と同意するのである。

浅知恵から「脱げ」と言ってしまったことはまだ許すが、こういう独善的なところが私には我慢ならない。

そもそも人に対して、何か身に付けているものを脱げとか取れとかいうのはすごいことなのであって、性的な含みが無いからいい、というもんではない。帽子も服の一部で、靴下や手袋やアクセサリーと同じ、と知っていれば「ストッキングを脱げ」と言うのと同じくらい大胆なことだとわかるはずだ。それでもなんでも言わねばならない時は、少なくとも「自分はやむをえない事情から、女性に失礼なことを要求しなければならない」ということを認識して言って欲しいと思う。

ところで、いくら「男性の帽子と女性の帽子は意味が違う」といっても、最近では女性も男性と同じ型の帽子をかぶるようになってきた。ハンティング帽とか、カウボーイハット、中折れ帽、そしてキャップなどだ。こういうのはどうしたらいいんだろう?

男性の帽子――(元々帽子は外来品なので)欧米の伝統からいえばキャップ・中折れ帽・カウボーイハット・麦藁帽子などは、屋内では脱ぐべし、ということになる。

ただ頭にピッタリしたニット帽なんかは、セーターの延長(もしくはセーターの一部)のようなもの、と私はとらえている。部屋に入ったからといっていちいちセーターを脱ぐ必要はないので、よほど暑いのでもない限り学校だろうが店内だろうがかぶったままでもいいのではないだろうか。鳥打帽や、丸型の帽子も同様で、とにかくフィット系のものは男でも脱がなくてよいのではないかな、と私は思っている。

私の場合、男性型のキャップやカウボーイハットであっても、気軽なレストランなんかでは脱がない。いったんかぶってしまうと、ヘアスタイルがただ事ではなく崩れているので、脱いだ方がかえって人様に対して見苦しいのではなかろうか?

ただし映画館や絵画展では、後ろの人の邪魔になるといけないから、何をかぶっていてもとりあえず脱ぐ。

というのは私のMYルールで、他の人には他の考えがあるかもしれない。

いつ、どんなとき脱帽してますか? そしてその理由は?

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2006年12月18日 (月)

昼風呂

061104_1521001_1 昼風呂セット(冬用)

上:スキムミルク+ブラウンシュガー+ハチミツ を混ぜたボディスクラブ。

下:クレイ+ハチミツ+グリセリン+オイル一滴 のフェイスパック

&最近一番のお気に入り。紫のストライプ柄のタオル(買ったばかりなのでまだフワフワ)。

061217_2205001_1 おフロ持ち込み用の本(ビニール袋に入れる)。「牝猫」コレット著。

猫を愛するあまり、猫嫌いの妻との間に「あたしを取るのか猫を取るのかどっちだ!!」みたいな争いが勃発し、とうとう猫を選ぶ青年。

 耽美でミステリアスな名作であるためか、自分が今まで読んだいろんな小説がこれを参考にしていることに気付いた。師匠の師匠に出会っちゃった感じ。コレット。

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2006年12月11日 (月)

憎まれっ子世にはばかる話

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私はこういう絵とか、赤い「666」とかいう数字を見ると、蛍光灯に集まる蛾のごとく惹き付けられてしまうらしくて、ついヨロヨロと歩み寄って手を伸ばし……

いざ観たら、古いオーメンと同じだ~! 一作目の リメイクとは知らず、新シリーズと勘違いして借りてしまったのだった。なにしろストーリーが同じなので、一作目を観た時のスリルやトキメキはもうなかった。こういう映画はスリルが命なのに。それでもやっぱり観ていて飽きない。

 私が最初の「オーメン」に出会ったのは多分10代の時なのだが、詩の謎解きをやる場面の、「悪魔は混沌の海から生まれる」という「混沌の海」が「政治」を意味する、というところでいたく感激したのだった。こういう辛辣さこそホラーだよね! と思ったものだった。

 私の記憶では、初代のダミアン君はもっとほっぺがぽっちゃりして、髪もクセ毛でもっと明るい色だった気がする。そして曖昧な、つかみどころのない印象だった。今回のダミアン君は黒髪で、きちんと血色悪くメイクされ、視線や表情の演技がよりわかりやすい。つまり、よりわかりやすい「憎たらしい感じの子」に仕上がっていると思う。

 よりコワモテになった新しいダミアンなだけに、夜中にキッチンでサンドイッチを作っているシーンがものすごく笑える。母がなんとなく台所へ下りてくると、暗闇の中でダミアンが、青白い無表情で食パンに何かを塗っている(悪魔でも夜中にパンが食べたくなるのか……)。

 私もたまに夜中に目を覚ましてむしょうに何か食べたくなるが、子供の頃は「こんな時間に食べちゃダメッ」と怒られた。これも普通なら「こらダミアン、何やってるの」「だって、ぼくおなかすいちゃったんだよ」となるような場面なのだが、ダミアンの顔があんまり怖いので(?)母が何も言えない。そして彼はパンの皿を両手で持って、自分の部屋で食おうと思ったのか何なのか、無言で去ってゆく。わずか5~6歳にして、すでに10代の反抗期の子のような貫禄なのだ。

 そんな最悪な親子関係なのだが、「私はこういう子、べつに嫌いじゃないな」と思う。本当に人を殺したら困るが、無愛想で口もきかないという程度なら、しかも何か悩み事があるわけでもなく生まれつきコワモテな性分なら、それも個性。人なつっこくてハキハキした子だけを愛するような了見の狭い大人になりたくない。

 でも、どうしてだろう。前はちゃんとダミアンが100%悪役に見えたのに、今度は「大人の、子供に対する勝手な好き嫌いの感情が正当化されたらこうなるだろうという話」にも見えてくるなんて……。やはりダミアンは曖昧で没個性的な子でなければならなかったのに、ちょっとわかりやすくしすぎちゃったのだろうか?

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2006年12月 3日 (日)

無敵の毛皮

Elze  親が新しい本棚を買ったので、整理しているうち骨董品の中から出てきた。「令嬢エルゼ」シュニツラー著。

 昭和32年発行の角川文庫で、ウィーンのシュニツラーという人が1924年に発表した小説。すごい古い薄い文庫本で、黄ばんでボロボロ。昔の文庫本は、どうしてクッキングペーパーみたいなセロファンみたいなカバーがかかっているんだろう?(そしてお値段40円……)。

 内容も不思議な話で、主人公エルゼが19歳の美人の令嬢で、貴族向けの古風なホテルに滞在している……などの設定を考えると、ゴシック小説のようにも思える。でも幽霊などが出るわけではなく、ただ主人公が遭遇した一つの出来事が、延々と続くモノローグの形で綴られている。

 あらすじは、エルゼの父は弁護士だが、賭博で借金を作り、大急ぎで金を用意しなければ刑務所に入れられるかもしれないということになった。遊ぼうと思ってホテルに来たら、母親からそういう手紙が来た。そして、同じホテルに父の友達が泊まっているはずだから、彼に融資を頼んでくれ、という。

 さてエルゼがその父の友達だというおじさんに、事情を話してお願いした。するとそのおじさん、「あなたの父に金を送ってやってもいいが、そのかわり15分間全裸で自分の前に立ってくれ」と言い出した。

 困ったエルゼ、あれこれ考えるのだが、最後に奇妙でブッ飛んだ解決策を考え出す。解決策というと語弊があるのだが、とにかく一つの行動を起こす。それは、素肌の上に毛皮のコートだけ着て、音楽室に入り、いきなり大勢の前で脱ぐという奇行。

 もちろん、その部屋には件のおじさんも居る。しかしそのおじさんは最初に「これは2人だけの秘密だ」と言っているのだから「個人的にこっそり拝観させていただく」ということを想定していたはずだ。にもかかわらずエルゼは秘密を公にし、白日の下に晒してしまう。そこに至る思考過程が細かく書かれている。

 こんなに細かく書かれていても、大人の意識しか持っていない人には「常識を失った」とか「パニック状態」というふうに受け取れるのかもしれない。たとえば「結局のところ、他の男も同じことを望んでいる。彼1人に見せ、彼1人が金を払うのでは不公平だから、公平にみんなに見せてやろう。そして、それぞれが自分の経済状況に応じて私に献金してくれればよい」と考えるようなところは、「理論の飛躍」と見えるのかもしれない。

 ただ私には、彼女の選択が、彼女なりにちゃんと筋の通ったものだということがすごくよくわかる気がする。エルゼは降ってわいた状況を自分なりに消化吸収し、もっと推し進めて、よりスリリングなドラマへと発展させてしまう。

 「自分の中に取り込み、自分の意識のフィルターを通して書き換える」という作業をやると、「私の作品」「MYストーリー」ができあがる。これがアートなのだが、彼女の場合は、実際に行動に出してしまった。歩くアートになってしまった。歩くアートというのは、ある意味道化だ。でも彼女は、自分の美しさにものすごく自信がある。彼女にとって裸体は恥ずべきものではないし、単純な、表面的な羞恥なんかあっさり飛び越す。毛皮のコートも持っている(フェイクファーでは場末の雰囲気になってしまってちょっと絵にならない)。美貌と本物の毛皮があればもう無敵、怖いものなしだ。

 それで私はこの物語のポイントは「毛皮のコート」だと思っていたのだが、実は「外套」としか書いていなくて、どんな毛皮なのか、もしくはどこに毛皮がついているのかすら定かではない(裏側なのか、表面なのか、ポイント使いなのか?)。ということで、「表面すべてが金茶色の毛皮でできたコートを着たエルゼ」というのは、私が勝手に想像した映像だったらしい。

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