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2007年6月

2007年6月24日 (日)

キャンドルナイト参加しました

前々から参加しようと思っていた、100万人のキャンドルナイト (22日~24日、夜8時から10時の間電気を消して温暖化防止)完遂しました。

私の過ごし方は……

一日目 PM8:00消灯→なぜか朝まで爆睡。途中で起きてキャンドルを消さなかったので、4本全部燃え尽きてしまった。10個で100円のキャンドルだからべつにいいけど……。火事に注意せねば。

二日目 猫の毛皮のお手入れ→ストレッチ→入浴→自分の肌のお手入れ で、なんとなく2時間クリア。いつも入浴前にコットンでアイメイクだけ落としているが、キャンドルの明かりの中でアイメイクを落とすのは一苦労(でも、あとから見たらちゃんと落ちていた)。

三日目 インコ君に遊んでもらおうとケージから出したが、暗いためかあまり活動してくれずに、ずっと肩に居座っている。4本のキャンドルの明かりのもとで読書(短編ひとつ読破)。そういえば夕飯たべてない。鳥を籠に戻し、薄闇の中でチキンなどをむさぼり食らっているうち二時間経過……

↓おフロ。優雅なひと時。

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016015 ↑このカンテラ型のキャンドルホルダーはなにかと重宝した。背が高いからフロ場でちょっとくらい水しぶきがかかっても平気だし、本に近づけても紙に燃え移る心配がないので気楽。もう10年ほど使っているが、もともとは庭のオブジェ用のランプで、たしかガーデニング用品の店で買ったと思う。

10個100円のティーライトキャンドルは、あまり使い勝手が良くない。融点が低いのか、アルミの中に入ったロウがすぐ液状になって、キャンドルを持って移動するとこぼれそうで危険。やはりある程度硬くて、しっかりとしたキャンドルが便利。インテリアショップの割引セールで買った「ヤンキーキャンドル」は、ロウ垂れしないのと、減り方がゆっくりしているのが良かった。

目が疲れるかと思いきや、かえって目が休まる感じがするのはなぜ?「不便」と思い込んでいたことが不思議なほど、やってみたらあまりにも簡単だった。何もしないで嘆くより、まず自分が行動だ、と本気で実感したこと。

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2007年6月17日 (日)

ファンタジーと言葉

Imgp1573  いただきものの本。大作家アーシュラ・K・ル=グウィンのエッセイ集。創作に関して常々疑問に思っていたことの答えが示されていたり、鋭く真実をうがった見解を示したりしてくれる。彼女は「ファンタジーとは目に見えないものを見えるようにすること」と言う。つまり作者の頭の中にしか存在しない想像の世界を、他人にも見えるように形あるものとして示すことだ。たとえば、こう書いてある。

ファンタジーとSFは、そもそものコンセプトからして、読者の目の前にある現実の世界に対してもう一つの可能な現実を提供するものである。

(略)

とはいえ、人の心を騒がせるおのれ自身の力を恐れているかのように、SFやファンタジー作品の多くは、作品の中で新たな社会を創りだすことに関し、臆病で、反動的でである。ファンタジーは封建制に、SFは軍事的、帝国的階級にしがみつく。ファンタジーもSFもたいてい主人公たちが、その性格にかかわらず並外れて男らしい偉業をなしとげることによってのみ、報償を得る。

これはまったくいつも思うことで、私はファンタジー小説の主人公たちが、すてきな王子様やお姫様であることにうんざりしている。特権階級の人間がそんなに素晴らしいものなんだろうか。こういうファンタジーでは「しぼりとった税金で贅沢三昧」「ドレスにワインをこぼした召使をその場で斬首」「深夜のダンスパーティ、実は乱交パーティ」などという暗黒面は絶対に書かれない。あたかも封建的な身分制度を全面的に肯定するかのような、善良で勇敢でストイックな王子様・お姫様が出てきて、彼らにたてつく者は悪役ということになっている。

それに、私はアニメ「ガンダム」の軍事社会が嫌いだ。どのシリーズだか忘れたがある日何気なくTVをつけて、そこに展開されたガンダムワールドに震え上がったことがある。ニュータイプだか何だか知らないが、究極の理数系の才能が君臨している。どこかの宇宙人と戦争している危機状況で、その理数系の能力の高い者が徹底的に優遇され、重宝される。たまたま私が見た主人公がまた不器用で、社会性も協調性も皆無、自分から友達もつくれない、女の子を前にしても気の効いたセリフひとつ言えないという、とにかくどうしようもない若者だった。しかし彼はニュータイプで、そのために周囲の者が気を使ってチヤホヤし、黙っていても昇進し、女の子も向こうから寄ってくる。ここまでコミュニケーション能力に欠けた、無粋な、他人に対して何の気遣いも積極性も持ち合わせていない男が、戦争に貢献する能力さえあれば繁栄してしまう世界。他の女性はいったいどう思っているのか、これは悪夢としか見えないのだが。

 とこんな具合に、ここでは語りつくせないほど、たったの数行でいろいろなことを考えさせてくれる本だった。

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2007年6月11日 (月)

一万一千本の鞭

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ギヨーム・アポリネール(1880~1916、パリの詩人)が書いた、謎の官能小説「一万一千本の鞭」(須賀慣訳、角川文庫)昭和49年発行のレアな古本。訳者が、英訳本からではなくフランス語の原書から直接訳した、と自慢しているだけあって、時に抱腹絶倒してしまうほど滑稽なニュアンスが充分生きている。

クラシックな挿絵がオツです↓

Imgp1558_3ルーマニアの大富豪で美貌の青年モニイ・ヴィベスクの、奇天烈な性的冒険の旅を描く。時代背景が日露戦争のあたりなので、馬車にドレス、葉巻タバコなどの小道具で奇妙に奥ゆかしく感じてしまうが、現代のちょっとしたエロ小説よりよほど過激でぶっ飛んだような暴力、排泄、流血のスプラッタシーンが延々と続く。

鞭打ちや快楽殺人などが並ぶと、やはりすぐに思い出すのはマルキ・ド・サドだ。ただサドの小説では、悪人たちが、「どうして自分は悪いことをするのか。世の常識や善行というものがどれだけバカらしいか」という反道徳論、反宗教論などをとうとうと述べる。悪党一人一人が、自分独自の理屈を持っている。そして本の題名が「悪徳の栄え」というだけあって、つねに極悪人や猛サディストが決して罰せられることなく悠々自適に暮らし続け、信心深い善人はどこまでもバカをみる、というストーリーになっている。

しかし、この本の登場人物たちはそうした「悪道哲学」みたいなものを語らない。ただひたすらあっけらかんとして、刹那的な快楽に身をゆだねているようである。必ずしもいい思いだけをするわけでもなく、時には痛い目にもあう。主人公モニイなどは、最後は捕虜になり、一万一千人の日本兵(ロシア側にいた彼にとっては敵兵)に鞭打たれて死んでしまう。そのシーンの描写をちょっとだけ紹介すると、

二千回の鞭打ちでモニイの魂は昇天した。陽光がさんさんと照り輝いていた。小ざっぱりした朝を、満州の子供たちの歌声がいっそう楽しいものにしていた。

と、まるまる一冊がこんな調子の能天気ぶりである。そう、この小説の特色は全編にただよう「憎めない」感なのだ。これだけやられて憎めない。最低なのに憎めない。それは一つには、サドのように理屈っぽくないからかもしれないし、偏りが少ないからかもしれない。これを読んでも著者自身の趣味や持論はほとんどうかがい知れないほどに、まんべんなく多種多様な変態が登場する。そして、さながら万国博覧会のごとくさまざまな人種が出てくる(日本娘が「あたしは三味線弾きの娘です」と語り、日本の風物を誇張したギャグのような身の上話を詩情たっぷりにきかせたりする)。

ところでモニイは捕虜になっている間ある日本人士官と友達になるが、彼に「欲望に悩まされたりしないのか」と尋ねる。するとこの日本人、卑猥な木版画のたくさんのった小型の春本を見せて「わが軍の将校はすべて、兵隊もみんな、このテの本を持っている。これのおかげで女なしで済ますこともできる」などと、あたかも戦略か勝利の秘訣のように語る。中の一冊には、少女の身体に触手を巻きつけているタコの絵がある。これは昨今のマンガでいう「触手攻め」というやつではないのか。べつに戦争しているわけではないが、受験勉強や仕事ずくめで異性から遠ざってもマンガがあれば大丈夫というマニアの人々……。そこには歴史があったのだ。アポリネールは何かを見抜いていたのか。

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2007年6月 3日 (日)

「今日の芸術(岡本太郎)」を読んだ

518mgpemsjl_aa240_1 岡本太郎の作品は、いいと思えるのがないので、本人にもあまり興味がなかった。だからこの本も、今頃になって初めて読んだのだが、なかなかおもしろかった。

たとえば、

「いい絵ね、あたしにはわからないけど」という言い方をする人がある。それは謙遜で言っている場合もあるし、一種の自慢として言っている場合もあるが、どちらにしてもおかしな言い方である。ある作品を「いい」と感じたなら、少なくとも「いい」と思った分量だけはわかっているのだから、それ以上に理解する必要などない。

私も常々そう思うのだが、「付随する知識がなければ理解したことにならない」という考えの人もあるから、世の中なにかと煩わしい。また彼は、「芸ごと」と「芸術」は違う、と力説する。

芸術とは創造することだ。既成概念を疑い、伝統や型を否定して、新しいものを創り上げるということである。これに対して、華道でも琴でもなんでも、日本の伝統芸能は、師匠の「なんとか流」というものをそっくりそのまま受け継ぎ、型から一歩も出ることなく、ひたすら古いやり方を繰り返すことである。彼らは新しいものを創り出したわけでもなんでもないので、これは芸術ではない。

こういうところは、「なるほどな」と思う。そして、

浅薄な観光者根性で、「日本の伝統的な美が失われるのはもったいない」と嘆く外国人があるが、そういう人には私はこう言うことにしている。「あなたがただって、優雅ではなやかな過去の文化を、産業革命や悲惨な市民革命をやってすっかりくつがえし、それと断絶して、そのあとに近代世界をうちたて、文化をつくり上げたではないか。どうして我々だけが近代化を否定されなければならないのか」

まったくその通りで、西洋がどんなに伝統をばっさりと切り捨てたか、お洋服ひとつとってもわかる。イギリスに行ったからといって旅館のおかみさんがヴィクトリア朝時代のドレスで出迎えてくれるわけでもなし、パリっ子たちがルイ王朝時代の衣装で成人式の祝いをするわけでもなし、オランダ娘が花火見物に行くからといっていっせいにエプロンドレスを着るわけでもない。またユダヤ人やアラブ人の衣装のように宗教的・政治的な意味合いが強いものは、いったんやめた人は二度と着ないのだろう。そうすると、日本ほど昔の衣装を大事に温存している国も他にないくらいだ。

このようにためになる本なのだが、しかし岡本太郎はやはり私にはわからぬ世界の人なのだ。なにしろゴシック建築について、「権威を象徴したような、こけおどしの、むだな装飾」とこき下ろしている人である。私に言わせれば岡本太郎の彫刻も充分コケオドシだ。ただし彼の芸術が何かの権威を象徴しているとすれば、それはY染色体の権威だろう。彼の好みは、ある意味で女性的といえるようなもの――妖艶さ、愛らしさ、緻密、優美など――を否定し、声高に男性ホルモン万歳を叫ぶ、バンカラな体育会系のセンスである。それに私は、彼がとりあげている印象派の絵画が大嫌いだ。また彼が「衝撃的」「魂を揺さぶられる」として褒め称えているピカソだが、私は申し訳ないが衝撃も不快感も何もなく、「あらまあボクちゃんたら、こんなの描いちゃって」とでも言いたいような、ちょっと冷めた感情しか持てない。岡本太郎は「伝統を厳しく批判せよ」「古いものはしょせん古いものでしかない」と言っている。その言葉通り、ピカソも古くなってしまったのではなかろうか。少なくとも、私はセザンヌもゴッホもピカソもみんな古臭いと思う。第一にこれらの作家は皆様もうお亡くなりになっている。そして実際、印象派が好きというのは、たいがい私よりも1~2世代年上の人々である。しかし古いといっても、エジプトの壁画やルネサンスのように、はっきりした異国情緒やロマンスや幻想性を感じさせてくれるほどに古くはない。私にとって絵画の印象派は、ちょうどカントリー音楽のように、中途半端に古臭くて魅力がない。

そんなわけで、私は岡本太郎は尊敬すべき、見習う点の多い人物とは思うのだが、やはり彼の趣味は嫌いである。

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