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2007年6月 3日 (日)

「今日の芸術(岡本太郎)」を読んだ

518mgpemsjl_aa240_1 岡本太郎の作品は、いいと思えるのがないので、本人にもあまり興味がなかった。だからこの本も、今頃になって初めて読んだのだが、なかなかおもしろかった。

たとえば、

「いい絵ね、あたしにはわからないけど」という言い方をする人がある。それは謙遜で言っている場合もあるし、一種の自慢として言っている場合もあるが、どちらにしてもおかしな言い方である。ある作品を「いい」と感じたなら、少なくとも「いい」と思った分量だけはわかっているのだから、それ以上に理解する必要などない。

私も常々そう思うのだが、「付随する知識がなければ理解したことにならない」という考えの人もあるから、世の中なにかと煩わしい。また彼は、「芸ごと」と「芸術」は違う、と力説する。

芸術とは創造することだ。既成概念を疑い、伝統や型を否定して、新しいものを創り上げるということである。これに対して、華道でも琴でもなんでも、日本の伝統芸能は、師匠の「なんとか流」というものをそっくりそのまま受け継ぎ、型から一歩も出ることなく、ひたすら古いやり方を繰り返すことである。彼らは新しいものを創り出したわけでもなんでもないので、これは芸術ではない。

こういうところは、「なるほどな」と思う。そして、

浅薄な観光者根性で、「日本の伝統的な美が失われるのはもったいない」と嘆く外国人があるが、そういう人には私はこう言うことにしている。「あなたがただって、優雅ではなやかな過去の文化を、産業革命や悲惨な市民革命をやってすっかりくつがえし、それと断絶して、そのあとに近代世界をうちたて、文化をつくり上げたではないか。どうして我々だけが近代化を否定されなければならないのか」

まったくその通りで、西洋がどんなに伝統をばっさりと切り捨てたか、お洋服ひとつとってもわかる。イギリスに行ったからといって旅館のおかみさんがヴィクトリア朝時代のドレスで出迎えてくれるわけでもなし、パリっ子たちがルイ王朝時代の衣装で成人式の祝いをするわけでもなし、オランダ娘が花火見物に行くからといっていっせいにエプロンドレスを着るわけでもない。またユダヤ人やアラブ人の衣装のように宗教的・政治的な意味合いが強いものは、いったんやめた人は二度と着ないのだろう。そうすると、日本ほど昔の衣装を大事に温存している国も他にないくらいだ。

このようにためになる本なのだが、しかし岡本太郎はやはり私にはわからぬ世界の人なのだ。なにしろゴシック建築について、「権威を象徴したような、こけおどしの、むだな装飾」とこき下ろしている人である。私に言わせれば岡本太郎の彫刻も充分コケオドシだ。ただし彼の芸術が何かの権威を象徴しているとすれば、それはY染色体の権威だろう。彼の好みは、ある意味で女性的といえるようなもの――妖艶さ、愛らしさ、緻密、優美など――を否定し、声高に男性ホルモン万歳を叫ぶ、バンカラな体育会系のセンスである。それに私は、彼がとりあげている印象派の絵画が大嫌いだ。また彼が「衝撃的」「魂を揺さぶられる」として褒め称えているピカソだが、私は申し訳ないが衝撃も不快感も何もなく、「あらまあボクちゃんたら、こんなの描いちゃって」とでも言いたいような、ちょっと冷めた感情しか持てない。岡本太郎は「伝統を厳しく批判せよ」「古いものはしょせん古いものでしかない」と言っている。その言葉通り、ピカソも古くなってしまったのではなかろうか。少なくとも、私はセザンヌもゴッホもピカソもみんな古臭いと思う。第一にこれらの作家は皆様もうお亡くなりになっている。そして実際、印象派が好きというのは、たいがい私よりも1~2世代年上の人々である。しかし古いといっても、エジプトの壁画やルネサンスのように、はっきりした異国情緒やロマンスや幻想性を感じさせてくれるほどに古くはない。私にとって絵画の印象派は、ちょうどカントリー音楽のように、中途半端に古臭くて魅力がない。

そんなわけで、私は岡本太郎は尊敬すべき、見習う点の多い人物とは思うのだが、やはり彼の趣味は嫌いである。

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