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2007年7月

2007年7月30日 (月)

火器類の魅力

Imgp1897  昔はレストランや喫茶店でマッチを配っているところが多く、パッケージもそれぞれ個性的なので、大量にコレクションしていた。しかし引越しを繰り返すうちそのコレクションを捨ててしまい、最近マッチを配っている店が少ないので、また買った。

↑雑貨屋さんで一箱105円。石榴のイラストのがお気に入り。

久しぶりに手に取ったらば、マッチ愛が再燃。紙の箱、木の軸、火薬の匂い、シュッと擦るときの感触、火がつくときのボッという音、すべてが神秘的でかわいい。

中学時代の私は、もいつなんどき天変地異が起きてもおかしくない、といくらか本気で思っていて、常にライターとカッターナイフを制服のポケットに入れて持っていた。(決して私が特殊な子供だったわけではない。1999年に地球が終わるとか、荒廃した未来を描いたSFが流行ったり、「文明が行き着くところまで行ったらあとは壊れるしかない」「世界は滅亡に向かっている」等などの言葉があふれていて、実際に終末の雰囲気だったのだ)。もちろん現実に何かが起きたらこの程度の道具でどうにかなるわけでもないのだが、お守りみたいなものだから、持っているだけで満足なのだ。あるとき学校の所持品検査でこれが見つかって咎められ、カッターはまあよしとされたが、「たとえタバコが出てこなかったとしても、ライターを持ち歩いていたら喫煙を疑われてもしかたない」と先生に注意された。ああ、流行に鈍感な先生には、ひしひしと迫ってくる危機感や滅びの風の匂いがわからないのだ。とそんな調子で聞く耳持たず、やっぱりひそかに持ち歩いていた。すると友達が「ライターがダメならマッチにすればいいじゃない」と言う。当時、わざわざマッチでタバコに火をつける不良はいなかったから、マッチなら疑われないというのだ。私は「もし大洪水になったら湿って火がつかなくなる」と反対した。

そう、湿ったら火がつかなくなる……。しかしそんな時には燃やす物もないはずだから、結局同じことのような気もする。

大人になった今では、滅亡や終末はあの頃に思い描いていたようなドラマチックで唐突なものではなく、もっとゆっくりと、じわじわとやってくるものだと知っている。1999年を過ぎても(一説で真の終焉といわれる2012年を過ぎても)、やっぱり人生は続くのだとわかっている。

で、マッチ。たしかにちょっとした欠点はあるのだが、そんな脆さがまた愛らしい。

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2007年7月23日 (月)

10代で人妻になることの悲劇!?

Imgp1838  Imgp1839

 フロベール著「ボヴァリー夫人」、中央公論社「世界の文学」第15巻より。ちなみに、よく見たら訳者は森鴎外の孫の山田ジャック(←ちゃんと漢字があるのだが、変わった字なので変換できず。この本を読むとなかなかすごい人だったことがわかる)。

ちょっとサスペンスにも似て、次々と事件が起こる。長いのに妙にスリリングで、最後まで目が離せない。私の支持する恋愛小説 №1は永遠に「チャタレイ夫人の恋人」だから、これは二番目におもしろい。でも「ボヴァリー夫人」は(正式にはどういう分類なのかは知らないが)、私には恋愛小説というより青春小説のように思える。若者の反逆や暴走などが破滅と死という形で幕を閉じる青春映画に、近いものを感じるからだ。

修道院から帰ってきてすぐ、村医者のボヴァリーと結婚させられた少女エンマ。結婚当時まだ17くらいで、やみくもにパリに憧れてみたり、めいっぱいオシャレしたり、危険な恋におぼれてみたりする。これが現代なら、若者がハメを外しつつも人生を模索しているような状態なのだが、彼女はすでに一家の主婦。自分を縛る枷が親ではなく夫であるため、怒りや軽蔑や非難など、反抗期の若者が親に抱くような感情の矛先がすべて夫に向けられることになる。彼女が本当に欲しかったのは、不倫の恋でも都会でもなく、人生の意味だったはずだ。でもそれは見つからない。そんな中で出入りの呉服屋に騙されて全財産を巻き上げられ、自殺するまでが描かれる。

「呉服屋」と訳されているが、これがちょっと不思議な存在で、訪問販売みたいな何でも屋が、わざわざ家まで注文をとりに来たり、洋服生地やレースや小物を見せてムリヤリ売りつける。そして「代金は後でいい」と言ったり、手形を書かせたり、不動産を売らせたりもする。物語中いちばんの汚れ役だが、堂々とエンマの葬式にあらわれるなど、有無を言わさぬところがある。でもおもしろいのはなんといっても薬屋のオヤジで、独特の存在感を放っている。そう、副題に「地方風俗」とある通り、1800年代のフランスの田舎町の生活や風習や人々がとてつもなく丁寧に描かれているのだ。

 ルーアンといえば、西洋美術史の授業で「ノートル=ダム大聖堂」の写真を見ながら勉強させられたが、教授が知識バカのぼんくらだから、おもしろくもなんともなかった。この物語では、エンマが二番目の不倫相手レオンとこっそり会う時の待ち合わせ場所として登場している。だから私にとってのノートル=ダム大聖堂といえば、学校で習った大聖堂ではなくて、エンマとレオン(もしかしたらその他大勢の人たち)が密会した背徳の大聖堂なのです。

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2007年7月16日 (月)

「99粒のなみだ」というのを発見!

Imgp1802  詩集「99粒のなみだ」寺山修司編、新書館。1969年初版発行で、これは73年の再版(それでもかなり古びている)。

不思議で、個性的で、愛らしさと冷淡さの同居したようなイラストに惹きつけられる。このイラストは「宇野亜喜良」という人が描いたことになっているが、あるページの少女の絵を見ていてハッとした。私が子供の頃から持っている、家宝のオルゴールのイラストに似た雰囲気があるのだ。

Imgp1806 Imgp1801

←これがMYオルゴール。べつに高価なものではないんだろうけど、深緑に塗られた木の箱、ふちどりのカット、フタの金の模様などが、最近のおもちゃにはありえないほど凝っているので、手放せずにいる。イラストは一枚のタイルに書かれていて、下の方にサインのようなものがあるが、判読不能。洋風の背景と直毛・黒髪の少女という和洋折衷の組み合わせが本の一連のイラストと通じるものを感じさせる。このイラストレーターが、私がオルゴールをもらった当時にまだ生きて絵を描いていたことは充分ありうる。それとも、ただ単にぶ厚い前髪が流行っていたのだろうか?

全体の題名でもある「99粒の涙」は、本の中ほどに収録されている雑文集のようなものだが、これにはいろんな意味で驚いた。今の時代にこの手の、耽美で少女趣味的な雑文を書いても男はバカにしてとりあわないだろうし、ましてやまともに出版はありえない。どうして寺山修司がこれを収録したのだろう。当時としては先駆的だったからなのか、それとも女性にはウケると見抜いたからなのだろうか? それとも昔は少女の世界が一つの文化としてそれなりに評価されていたのに、最近地位が落ちてきたのだろうか?

この雑文集の内容は、あんりとぱうろという二人の若者(著者)が「地獄の天使」という名の喫茶店を経営している。(寺山修司の序文では彼らを「二人の少女」と呼んでいるが、文中に「おかまのふりをする」というくだりがある。おかまのふりをするからには男ではないのか? ともかく性別はぼかされて定かではない。)彼らの趣味や生活ぶりがお洒落に、またひょうきんに綴られ、それを通して一つの文化が浮かび上がる。彼らの蔵書に、サロメ、美神の館、殺しの美学、毒殺の手帖、性的倒錯、拷問の歴史、火星年代記(バローズのSF小説??)、世界怪奇小説傑作選、等々の題名が並んでいる、というくだりがあって、「これあたしの部屋?」と思うほど親近感を感じてしまう。当時すでにゴシック趣味や耽美主義が広まりつつあったということだろうか。

ただ、近頃のもの書きの若者では及びもつかないというか、想像を絶する部分もある。たとえばこのあんりとぱうろの時間感覚や、優雅きわまりない怠惰ぶりは、現代人にはとても真似できない感じがする。彼らが人間であることにものすごい新鮮さを感じてしまった。

というのは、忙しい世の中でみなさんお疲れなので「ゆっくりやろう」「のんびりしましょう」という大人向けの癒し系絵本みたいなものがたくさん出ている。しかしその主人公たちの多くは人間ではない。クマだとかウサギだとか、はてはパンや豆腐である。人間がのんびりしていたら、とてもじゃないがシャレにならないからなのか? 昔は、書き手が男で、フワフワとしたつかみどころのない女主人公に自分の願望を転化した小説が多かった。自由で、いっさいの責任や義務を持たないまま生きることを許され、どこか現実から遊離したような人間を書きたいとき、男ではありえないというわけで、主人公を女にするのだ。

しかし今は女でも少女でも少年でも何かと忙しい。だから「あわただしい女の生活」から一時逃避したい。でものんびりしている人間なんかはしょせんありえない、存在したとしてもそれを見るのは癪に障る。そんなわけで、動物や豆腐に夢を託すのだろうか?

豆腐に夢を託す。そう考えるとすごいものがある。

話がそれてしまった。とにかく寺山修司の最初と終わりの言葉がふるっていてリアルなので、大笑いしてしまった。

「どうか この詩をおいてけぼりにして さっさと人生をはじめてしまわず ときどきはふりかえってあげてください」

「詩人の多すぎる世の中は不幸ですが 詩人のいない世の中はもっと不幸なのです」

彼も「こんな本に何の意味がある」「こんな幻想に何の意味がある」という合理主義や利益追求や労働賛美と闘っていたのだろうか。

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2007年7月 8日 (日)

「マリオネット」ガブリエル・バンサン

Imgp1769最近見つけて、かわいいから買った。お人形をめぐる子供の純情が痛い!

ガブリエル・バンサンのデッサン画の絵本は全部集めたいくらい好きで、とくに「天国はおおさわぎ~天使セラフィーの冒険~」が気になるが、これはぶ厚いのでお値段が高め。

「たまご」は、巨大な卵や黒い鳥、という謎めいたモチーフにはすごく惹かれるものの、シュールすぎてややわかりにくい。作者のバンサンがベルギー人ということで、もしかするとベルギー人にしかわからない社会風刺でも含んでいるのかもしれない。

Imgp1770←こちら、有名な「アンジュール」。

初めてガブリエル・バンサンを知ったのがこの本。

あまりに感動したので、一時期ウチを訪れる人全員に見せていた。ただし「大好評」という本屋の売り文句とは裏腹に、反応は意外とまちまち。いくら「このデッサンの線がすごいの! 最小限の線ですべてを表現するところがすごいの!!」と力説したところで、「色がついてなくちゃ絵じゃない」「言語による説明がないと理解不能」という人もあって、根本的な部分で好みが分かれる。

主人公は、いきなり飼い主に捨てられたアンジュール。彼は絵本にありがちなかわいいワンちゃんではなく、明らかに成犬。しかも猟犬タイプのゴツめの雄で、毛皮よりもむしろ関節や動きを強調して描かれ、哀愁漂う魅力を見せてくれる。それは、鎖に繋がれ、そこそこの幸福と倦怠のぬるま湯につかるようになるとたちまち消えてしまうであろう儚い輝きであり、薄氷を踏むような緊迫感あふれる美しさだ。すてきだ、アンジュール。いっそ永遠に野良犬でいてくれないものだろうか。と思うが、最後には新しい飼い主に巡り合ってあっけなく尻尾なんか振ってしまう。ただ、巡り合った相手が幼い子供であるために、「主人に捨てられた→別の主人のもになる」という、やるせない構図からはやや救われて、ちょうど共鳴できる仲間に出会ったようなハッピー感を残す。

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2007年7月 1日 (日)

ポストカード展をみた

003_1 ポストカード展 に行って来ました。

いろんなイラストレーターさんたちが作ったポストカードの展示即売会。ほのぼの系ばかりだったらヤだな……と思ったが、ファンタジーで独創的なの、不思議なのやダークなのも多数あって満足。そのへんのお店では売っていないので、この機会にと買ってしまう。またポストカードが増えてしまった……。

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