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2007年8月

2007年8月27日 (月)

豹柄の花

Imgp1901  ユリは白よりオレンジがだんぜん良い。植物のくせに妙にアニマルチック。豹柄なんです。

10代の頃、豹柄大好きだった私は、ある日「世界悪趣味大辞典」(今は絶版)という本に豹柄がとりあげられているのを見つけてビックリ。「こ、これは……あたしってもしかして悪趣味……?」

でも、私が発見した豹柄を着こなす奥の手がいくつかある。まずは髪の毛を茶色や金に染めない(染まっている場合は一日だけ黒くする)こと。髪さえ真っ黒にしておけば豹柄や蛍光グリーンを着ても決して下品に浮ついては見えない。一種の重みや深みを残しておける――ような気がした。また、自分が肉感的なグラマーと程遠い(今もだが)。だからユリと同じく「がんばって豹柄なんか着てるけど、しょせん植物ですから。ほほほ」という顔ができたこと。あとはメイクの色味を抑え、アクセサリーをじゃらじゃらしすぎなければ、「目立ちたいわけではなく、性的な下心があるのでもなく、本当に豹柄が好きで豹柄を着ている真の豹柄愛好者」になれるはずなのだ。(ちなみに牛柄愛好者というものがいる。彼女たちは、心から牛柄が好きで牛柄を着ていることを誰も疑わない。しかしなぜ豹柄はいろんな意味で誤解を受けてしまうのか)。

ただ20代になって服の豹柄はやめた。やめたのだが、豹柄の布団カバーを手に入れたので、それで満足した。そのカバーは安い柄物にはめずらしく、化繊ではなく綿100%で、通気性抜群で生地も丈夫。何年も使っていた。でも冬のある夜ストーブを近づけすぎて、大穴を開けてしまったので捨てた(残念だが、熱に焦げて穴があいた……というのは豹柄にふさわしいホットな最後のように思えた)。その後も豹柄の寝具(しかも綿)を探したが、同じものには二度と巡り合えなかった。

 そんなわけでこのユリは、久々に出会ったはかない豹柄。アニマル柄は原始的な所有欲を刺激する。麻薬のように、どこか深い部分に訴える魔力を持っている気がする。

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2007年8月20日 (月)

最近のお気に入り

Imgp2028 MYスペシャルヒット!! どの曲も好み。WAVORLYの「CONQUERING THE FEAR OF FLIGHT」

クラシックなイントロが美しい。そこからハードロックに移行する時の妖しい音がたまらん。ジャケットが鳥の巣写真でかわいい。。

男5人のバンド(裏側にメンバーが飛行場に並んでいる写真があるが、せっかく中央に配置された一番美形そうな人の顔が逆光だ……)。解説がついていないのでどこの誰だかよくわからないまま聴いている。飛行場はたぶんアルバム名の「フライトの恐怖を克服する」と関係あって、もしかして空っぽの鳥の巣写真とも関係ある。テーマは「巣立ち」なのかと思うと、そうだとしたらもう「青さ」というより「白さ」の表現になってくるので、なにかクラクラしてきてしまう。「黒さ」ならわかるんだけどな……。

Imgp2031 これも大好き。ENTER SHIKARI 「Take The Skies」

パワフルで騒々しくてステキ。歌詞カードのイラストが独特! 歌詞もおもしろいです。

買ってだいぶ経つのに、まだ付録のDVDを観てない(そういえばシールもついてたけどあまり欲しくなかった)。

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2007年8月13日 (月)

死の受発信能力について

Imgp1929 友達の夫からきいた話。

 彼が独身だった頃のこと、会社で同じ部署の、Aという人とよく一緒に飲んでいた。ある夜、酔った勢いで「死後の世界はあるのかないのか」と議論が始まった。二人は何かの本で読んだ話をもとに、「もしどちらか一方が先に死んで、死後の世界があったら、何らかの形で必ず残った方に知らせる」と誓い合った。

 その後Aさんが転勤になったので、数年間会うこともなかった。そしてこの約束のこともすっかり忘れていた。

 ある日、仕事の後マンションに帰ると、誰もいないはずの部屋に濃厚に人の気配が漂っていた。「誰かいる。絶対に誰かがいる」とほとんど確信に近いものを感じ、ベランダからバスルームから、クロゼットまで開けてくまなく調べてみたが、誰もいない。「やっぱり気のせいだったのかな」と気をとり直して、パソコンをつけた。すると、やはり以前同じ部署だった人からメールが来ていた。Aさんが亡くなったという知らせだった。

               

             *

               

ある在日アメリカ人男性の話。

 地元サンフランシスコに住んでいた頃、休日にうたた寝していると、夢に友達が出てきた。高校時代の同級生で、風俗店で働いているやくざ者。そいつがなぜか「ボーリングしに行こう」と言う。「まだ仕事が残っているから」と断ると、「じゃあいい」と出て行こうとする。「何かあったのか」と尋ねると、「この街にはウンザリだ。俺は家に帰る」と捨てゼリフを残して去った(ただし彼の両親はすでに他界し、家は売却されている。ボーリング場は以前二人でよく行った場所)。

 そこで目が覚めた。その後ニュースを見ていると、その友達の勤めていた店が襲われたことがわかった。当時店にいた女性2名と共に、彼も撃ち殺されていた。

 いわく「わたしは幽霊は信じない。なぜなら死んだ人間には何のパワーもないからだ。でも死にかけている人間にはまだ生体エネルギーがあり、テレパシーを発信することがあると思う」

              *

 死にゆく者がサインを発信したとして、受け手側にもそれなりの受信能力が必要だと思う。よってこれらをひとまとめにして「死の受発信能力」と呼ぶ。

 話をきかせてくれたこの二人の語り手は、幽霊には懐疑的でも「死の受発信能力」は信じている。二人とも知性は高く、精神的・情緒的に安定し、社会的地位と周囲からの信頼を得た、ようするにいい大人である。であればこそ、逃避傾向の強い人々や、多感な中高生たちの霊体験とは違った、何か根の深いものを感じる。

 なぜ人は、「死の受発信能力」に興味を持ったり、信じたりするのか。私は上の二つの例に限っては、いずれも働き盛りの年齢の男性-男性間で受発信が行われた(あるいは当人がそう信じている)点で注目した。また、両者とも亡くなった友達とは何年も前に疎遠になっており、「愛の力」では説明できない。

 もし本当に、人間の中に「死の受発信能力」が存在するのなら、それは進化の過程で必要性にせまられて発達したものであるはずだ。

太古の昔、男性は狩りや部族間の戦争など、チームで危険な任務にあたる機会が多かった。そんな危機的状況の中では、仲間の死を即座に察知することは、何らかの意味があったと思われる。欠員が出れば、その場で作戦変更などの対応が必要になる。迅速な対処ができなければチーム全員が危険にさらされる。だから、たとえ分散して別行動していても、チームの人数・ポジション・安否は常に把握しておきたい。しかし無線機も携帯もない。どうするか。テレパシーだ。

といったら単純すぎるが、多くの人が「死の受発信能力」を信じている(もしくは信じたい)気持ちの一端は、やはり古代社会と無関係ではないはずだ。この問題については依然考え中。

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2007年8月 6日 (月)

「老妓抄」岡本かの子

Imgp1927  岡本かの子の「老妓抄」という短編は新潮文庫の「老妓抄(他八篇)」という短編集にのっていて、他の作品は私にはどうもピンとこなくてつまらない。ただ「老妓抄」だけはグサッとくる傑作だと思った。

どうしておもしろいかというと、私が以前勤めていた工場に、30代のフリーターで自称発明家の人がいたからだ。この人は「俺は新発明のアイディアをたくさん持っている。いつかこれで特許をとって大金持ちになるんだ」と言っていたが、その後どうなったんだろう。

この物語に出てくる若者は電気工だが、臨時雇いの職を転々としながら「発明家になりたい」と話している。それを耳にしたある年配の芸者がパトロンをかって出て、住居と研究室を用意し、生活費も出してやる(この隠居のような女性は「老妓」と呼ばれているが、それほど年ではないような気もする)。とにかく想像を絶する気前の良さだ。

 さてこの電気屋の若者、研究生活に入ったはいいが、生活費の心配がなくなったとたん「発明で大金持ちになりたい」と思った野心もきれいさっぱり消えてしまい、食べてゴロゴロして無気力に過ごす。そして「自分はあんがい小さな幸せで満足してしまうこぢんまりした人間なのではないか」と考え始める。しかも老妓の養女のみち子がなぜか彼を気に入って、しょっちゅう遊びに来てはちょっかいを出す。老妓は彼に「心底惚れ合っているなら反対しないが、中途半端な恋ならやめろ」と忠告し、「仕事でも恋でも、混じり気のない一途なものを身近に見てから死にたい」と語る。

 それに対して若者は「一途なものなんてしょせん幻想で、現実とは切れっぱしの集積にすぎないのではないか」と冷めている。 

 老妓の語る言葉、

「お互ひが切れつぱしだけの惚れ合ひ方で、たゞ何かの拍子で出来あふといふことでもあるなら、そんなことは世間にはいくらもあるし、つまらない。必ずしもみち子を相手取るにも當るまい。私自身も永い一生そんなことばかりで苦労して来た。それなら何度やつでも同じことなのだ」

それは、私もいつも思う。当時の堅気の女性なら見合い結婚してこんなことは考えなかったかもしれないが、彼女は芸者という職業柄、現代女性に近い恋愛経験を持っている。そんなところも「わかるわぁ」と思わせるポイントなのかもしれない。それに色事に奔放な芸者社会の空気を吸って育ったみち子の、子供っぽい好奇心や軽薄さも現代的で、わかる。私にはみち子と老妓が一人の女の中に存在する二つの面に見える。それとも、ただ単に私がこの二人の中間の年齢ということなのだろうか?

 それをいえば、若者と老妓もまた私の中に住んでいる二人の人間のような気がする。私は、現実に一途に研究して大発明する人間が存在する以上、まったくの幻想だとは思わない。ただ、非常に数が少ないだけなのだ。

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