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2007年8月13日 (月)

死の受発信能力について

Imgp1929 友達の夫からきいた話。

 彼が独身だった頃のこと、会社で同じ部署の、Aという人とよく一緒に飲んでいた。ある夜、酔った勢いで「死後の世界はあるのかないのか」と議論が始まった。二人は何かの本で読んだ話をもとに、「もしどちらか一方が先に死んで、死後の世界があったら、何らかの形で必ず残った方に知らせる」と誓い合った。

 その後Aさんが転勤になったので、数年間会うこともなかった。そしてこの約束のこともすっかり忘れていた。

 ある日、仕事の後マンションに帰ると、誰もいないはずの部屋に濃厚に人の気配が漂っていた。「誰かいる。絶対に誰かがいる」とほとんど確信に近いものを感じ、ベランダからバスルームから、クロゼットまで開けてくまなく調べてみたが、誰もいない。「やっぱり気のせいだったのかな」と気をとり直して、パソコンをつけた。すると、やはり以前同じ部署だった人からメールが来ていた。Aさんが亡くなったという知らせだった。

               

             *

               

ある在日アメリカ人男性の話。

 地元サンフランシスコに住んでいた頃、休日にうたた寝していると、夢に友達が出てきた。高校時代の同級生で、風俗店で働いているやくざ者。そいつがなぜか「ボーリングしに行こう」と言う。「まだ仕事が残っているから」と断ると、「じゃあいい」と出て行こうとする。「何かあったのか」と尋ねると、「この街にはウンザリだ。俺は家に帰る」と捨てゼリフを残して去った(ただし彼の両親はすでに他界し、家は売却されている。ボーリング場は以前二人でよく行った場所)。

 そこで目が覚めた。その後ニュースを見ていると、その友達の勤めていた店が襲われたことがわかった。当時店にいた女性2名と共に、彼も撃ち殺されていた。

 いわく「わたしは幽霊は信じない。なぜなら死んだ人間には何のパワーもないからだ。でも死にかけている人間にはまだ生体エネルギーがあり、テレパシーを発信することがあると思う」

              *

 死にゆく者がサインを発信したとして、受け手側にもそれなりの受信能力が必要だと思う。よってこれらをひとまとめにして「死の受発信能力」と呼ぶ。

 話をきかせてくれたこの二人の語り手は、幽霊には懐疑的でも「死の受発信能力」は信じている。二人とも知性は高く、精神的・情緒的に安定し、社会的地位と周囲からの信頼を得た、ようするにいい大人である。であればこそ、逃避傾向の強い人々や、多感な中高生たちの霊体験とは違った、何か根の深いものを感じる。

 なぜ人は、「死の受発信能力」に興味を持ったり、信じたりするのか。私は上の二つの例に限っては、いずれも働き盛りの年齢の男性-男性間で受発信が行われた(あるいは当人がそう信じている)点で注目した。また、両者とも亡くなった友達とは何年も前に疎遠になっており、「愛の力」では説明できない。

 もし本当に、人間の中に「死の受発信能力」が存在するのなら、それは進化の過程で必要性にせまられて発達したものであるはずだ。

太古の昔、男性は狩りや部族間の戦争など、チームで危険な任務にあたる機会が多かった。そんな危機的状況の中では、仲間の死を即座に察知することは、何らかの意味があったと思われる。欠員が出れば、その場で作戦変更などの対応が必要になる。迅速な対処ができなければチーム全員が危険にさらされる。だから、たとえ分散して別行動していても、チームの人数・ポジション・安否は常に把握しておきたい。しかし無線機も携帯もない。どうするか。テレパシーだ。

といったら単純すぎるが、多くの人が「死の受発信能力」を信じている(もしくは信じたい)気持ちの一端は、やはり古代社会と無関係ではないはずだ。この問題については依然考え中。

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