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2007年10月

2007年10月28日 (日)

「見殺し」について考える

Imgp2622 Imgp2624_4 かぼちゃコンテスト。今年はミイラさんがよく見えない……

←狼男がすてき

 ここ最近、ちょっとTVをつけると、子供たちが集まって「いじめられている子を助けることができるか」と話し合っていることが多くなった。

 そこで見殺しについて考える。

 助けても自分になんら害の及ばない状況なら、いくらでも助けたらいいと思う。ただ、多くの子が「助けると今度は自分がやられる」と言っている。こうなると、生き抜くために一種の技術が必要になり、風の向くまま気の向くままに気楽に人助けしてはいられなくなる。

そんな状況では、どうしても助ける相手を選ばざるをえなくなる。問題は、そのいじめられている子が、自分がやられたとき味方になってくれるのか、つまり自分が危機に陥ったとき「恩返しをしてくれる人なのかどうか」という点だ。

「恩を仇で返されてもなんでもいいから、とにかく助ける」という人は、たいへん立派で、偉いと思う。でも私はそこまで立派ではないので、かなりの確率で自分を裏切るとわかっている人は助けられない。

 助けても助け返してくれない人には、いくつか理由がある。まず、基本的に根性が悪くて「自分さえよければ他人はどうなってもいい」と思っている。または、余裕がなくて人のことにまで気がまわらない。三つ目は、とにかく気が小さすぎてあてにならない。そして悪気はまったくないし、良心的な人物ですらあるのだが、結果的に人を見殺しにする。

 第三の人物が存在するということについて、私は最初まったく思いつかなかったのだが、たとえばこんなことがあった。

数年前、ちょっとした事故のような件で、見知らぬ女性に助けていただいたことがある。この見知らぬ人は、舌を巻くほど素早い行動力を見せた。私はその時一人ではなかった。しかし私の本来の連れは、何もしないで後ろの方でポカンと立っていた。

 大事に至らなかったので私は気にしていなかったが、当人が気に病んで、「なんとかしなきゃ、しなきゃと思いながら、どうしても身体が動かなかった。たいへん申し訳ない」と謝られてしまった。

 「申し訳ない」と反省してくれたのだから、次に何かあったら真っ先になんとかしてくれるかというと、それはわからない。スポーツでも恋でもなんでも、いったん身体に「逃げ癖」みたいなものがついてしまうと、泥沼にはまったようになって抜け出すのが難しい。いくら頭では動け、動けと焦っても、どうしても身体がついてこない状態に陥るのだ。この人はその状態に入り込みやすい人かもしれない。

 もしこれが戦場だったら、この人を戦友として信頼するか? ちょっと危険な賭けだ。

 ただ、適材適所という言葉があって、映画じゃないんだから、素早く派手な行動をするだけが人助けではない。人助けとは本来その場限りのものではなく、気が遠くなるほど地道で忍耐を要する作業であるはずだ。

 大火事になったとする。そこでテキパキと行動して、大事な友達を助けた。これを仮に、精神の瞬発力と呼ぶことにする。

 親友は一命を取り留めたが、大火傷を負って看病することになった。重症の友達。思うように回復せず、人に当り散らす。それでも踏みとどまって看病し、リハビリまで付き合ったとする。これを精神の持久力と呼ぶとする。

 人間を見てみれば、瞬発力・持久力ともに持っているらしい人もいるが、どちらか一つしか持ち合わせていない人、あるいはどちらかに偏っている人もいる。

ぽかんと後ろに立っていた例の人は、瞬発力に欠けるが、持久力はあると私は思っていた。だから、パッと行動すべき場面でそれができなかったからといって、べつにダメ人間ということにはならない。

ただ、たとえば大災害の現場とか、戦場やスラム街や刑務所、あるいはいじめが横行している学校など、とにかく瞬発力がものをいう場面ではこの人は魅力を失い、「助けても恩返しをしてくれない人」ということになってしまうかもしれない。

と、こんなことを言うと、「じゃあ日本の学校は刑務所だとでもいうんですか」と怒られる。私は「それ以外の何ものでもないだろうよ」と思うのだが。

 それはそれとして、人それぞれ個性に応じた人助けの方法があるはずだ。「こうしなきゃいけない」という思いこみを捨てればきっと何かが見えてくると思うわけです。

 

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2007年10月21日 (日)

「銀色の愛ふたたび」を読んだ

008  私にとって特別な「思い出の本」の一つ、「銀色の恋人」タニス・リー著(ハヤカワ文庫・辻井朱美訳)。これを読んだとき私は主人公ジェーンと同じ16歳だった。

 人間そっくりの美しい男性型ロボット・シルヴァーを本気で愛してしまった大富豪の娘ジェーン。シルヴァーと二人きりで暮らすために家出する。しかし肝心のシルヴァーを買うために貯金を使い果たし、自分名義の家財道具をすべて売り払ってしまったため、やむなくスラム街みたいなところにボロアパートを借りて新生活とあいなる。

 私は二人がこのボロアパートを、文無し同然にもかかわらず様々に工夫を凝らしてインテリアコーディネイトしていくシーンがとくに大好きで、自分自身がボロアパートの住人と化してからも心の支えとして何度も読み返していた。そう、T・リーの魅力の一つは抜群の美的センスなのです。

Silver2 最近続編が出たらしいので買った。前作で「ロボットが人間の失業率を増加させる」等々の非難を受けて解体されたシルヴァーが、今度はMETA社の提供で復活。名前も「ヴァーリス」に変わり、能力的にもよりパワーアップして登場する。

 新生ヴァーリスは「シルヴァーだった頃の記憶は持っているが、自分はシルヴァーではない」と言う。たしかに性格も、解体処分の宣告を受けて唯々諾々と従ったシルヴァーと正反対。クールで策士な親分肌で、かなりの俺様ぶりを発揮したあげく「我々に恭順を求めるな。それは終わった」と、独立宣言。地下に潜伏したり、ロボット仲間を地球外へ逃がしたり、放浪生活を送ったりと忙しい。

 肝心の主人公はというと……

 前作では、シルヴァーとの恋は、箱入り娘ジェーンが世の中へ出て行くきっかけとなる。そして万能ロボット・シルヴァーがそれを精神的にも物理的にもサポートする、という筋書きになっている。ところが、こちらの主人公ローレンは最初からほぼ完成された行動力や独立性を持っており、ヴァーリスとの恋がジェーンの場合とまったく逆の方向に働く。つまり頼もしい女の子だったローレンが次第に行動力を削ぎ落とされ、ヴァーリスの囲われ者的な立場になってゆく。しかもこのローレン、若いのに計算高く「こんちくしょう、ロボットなんかの思い通りになってたまるか」とたてつくようなストリート精神もない。そのため調教モノでも監禁モノでもない、ひたすら甘い二人の世界へと向かう閉塞的な展開がやや息苦しい。

というより、前作でシルヴァーがジェーンをサポートしたように、今度は人間であるローレンがロボットの自立をサポートしているのか? この二冊を読み比べると、A面とB面みたいで不思議である。

 ただ私は、人間への忠誠を貫くのも、「ブレードランナー」風に徹底的に反旗を翻すのも、どちらにしてもきわめて人造人間的だと思えてならない。

と、そんなことを考えていたら、昔ある男友達が言った言葉を思い出した。なぜか「田嶋陽子はとても女らしいと思う」と言うのである。つまり、従順なのも反逆児も、つきつめれば両方とも女性的である。その従順な方がすたれた結果、真逆の女らしさとしての自由の闘士タイプだけが残った、と彼は思ったのだろうか。

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2007年10月15日 (月)

アリたちの末期病棟

007_2  ゴキブリに困ってコンバットを置いたら、翌日からぱったりと姿を消した。念のためベッドの下にも一つ置いておいたら、床下に潜んでいた茶色で大型の家アリも死に始めた。

 アリは仲間が病気になると巣の外に運び出して放置していく習性がある。決して遺体を搬出するのではない。仲間がまだ生きているうちに、もだえ苦しんでいるのを強制連行して、できるだけ巣から遠ざけて捨てていく。伝染を防ぐための本能らしい。治療とか看病とかいう概念がないのでドライである。

捨てる場所としては、窓際など明るい場所が人気だ。クロゼットの縁など、ちょっとした段差の周辺も好まれる。

一概に仲間を捨てるといっても、何気なく見ていると多様性がある。

「よいしょ、よいしょ。ま、このへんでいいか」という感じで置き去りにするのは合理的な多数派。

何割かはハイテンションな「死のダイヴ」の引率者。とどめをさしてやろうとでもいうのか、病アリをかついだまま窓ガラスや壁を垂直に駆け上がり、わざわざ高いところから落下させる。

それより少数だが、放浪派。ピクピクしている病アリを引きずりまわして永遠にさまよい歩く。置いたかと思うとまた引き返して運び、置いたかと思えばまた運ぶ。あんまりいつまでもウロウロしているから、こっちもいい加減うんざりして行方を追うのをやめる。いったい別れを惜しんで葛藤しているのか、それともよほど優柔不断なのだろうか。

一組だけだが、ロミオとジュリエット風のコンビもいた。運んできたアリ自身も途中で力尽きてヨロヨロとなり、そのまま仲間に折り重なるようにして最期を迎えた。

意外に多いのが、「てやんでい、死に場所くらい自分で決めらあ」とでも言いたげな孤高のアリ。単独で巣から出てきて縦横無尽に駆け回ったあげくコロッと倒れる。

 アリはトンネルを掘るのが仕事なんだから、たのむから巣の一角をちょっと増築して、ホスピスや霊安室や墓地を作ってもらえないものかと思う。確かに巣の外に放り出せば簡単だが、彼らにとっての「巣の外」とは、すなわち人間様の部屋だ。部屋の床に累々と、アリの死骸が散らばって困る。片付けても片付けても数時間後にはまた新たな急患が運び出される。

 ゴキブリは瀕死の仲間を巣の外に運び出さない。死骸が目に付く場所にないということは、みなさん隠れ家でお亡くなりになっているのだろうか。コンバットの説明書きによると、ゴキブリは仲間の糞を食べる習性があるという。ゴキブリたちの付き合いは良くも悪くもディープだ。そこへいくとアリの方がはるかに冷淡で利口な感じがする。

 利口と言えば、アリの死骸とともに、細かくちぎった黄色いスポンジのカスのようなものが床に落ちているようになった。最初は何なのかわからなかったが、これがどうもコンバットの中に入っている毒餌のカケラのようなのだ。アリがちぎって巣に運び込んだが、何かおかしいと気付いてまた運び出し、人間の部屋の床に捨てていくのではないかと思う。

 うちのインコのそらまめには床をつつきまわるくせがあるので、コンバットのカケラを間違って口に入れないか心配で困る。

 家アリの存在まで想定していないのか、とにかく思わぬ弊害の多かったコンバット。一週間ばかりで病アリの搬出数も落ち着いてきたからいいけれど……。ひょんなことから見てしまった末期アリの世界。

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