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2007年11月26日 (月)

一少女より「幸福の王子」に寄せて

419nfyvwakl_aa240_1  私の記憶からいって、大人が「良い」と考えた物語を、子供は必ずしも良いと思わない。最近新訳が出たらしいオスカー・ワイルド著「幸福の王子」について、少女からの正直な印象を言わせていただきます。

 私は小学生のころ、これを本でも読んだし、なんという劇団だか忘れてしまったが、子供向けの劇団の公演でも観た。そして子供ながらにいやらしい感じがして非常に納得いかないお話であった。

 ストーリーは、

 広場に金箔で飾られた王子様の銅像が建っていたが、この銅像がツバメと会話しているうちに「貧しい人を助けたい」と使命感に目覚める。そしてツバメに頼んで自分の表面に塗装された黄金を少しずつ剥がしてもらい、困っている人に配ってもらう。この慈善事業に夢中になるあまりツバメは移動の季節を逃して死ぬ。王子もすべての黄金を配りつくしてみすぼらしくなったので取り壊される。しかし天使たちが二人の魂を救い上げてくれる。

 まず私には「ヒーローの彫像」という発想がなかったので、「まあお人形みたいなものかな」と思った。そして「人形が高尚なことを考えている」という発想がものすごく不気味だった。主人への愛、着飾る喜び、捨てられた虚しさ、その程度が人形に許される限界であって、慈善事業などもっての他である。ただ、この王子様は公共の場に建てられたもので、特定の主人を持っていない。万人の飾り物である。それでも飾り物なんだからおとなしくキラキラして目の保養になっていればいいのに、「人助けしよう」と自発性を持つ。「せめておまえの豪華な美しさでこの不景気な世を明るくしてくれ」と思ったのかもしれない製作者の意図を裏切ったともいえる(少女は理屈抜きで美しいものが好きなのです。あしからず)。

ともかく彼は「みんなが困っているのにボクだけ金ピカでいるのもなんだなあ」と気付いてしまった。そこでツバメに仲間をたくさん集めてもらって、「さあ配ってきてくれたまえ」と一気にバサッと黄金を脱ぐなら男前である。ところが彼はやることが細かいというかなんというのか、この黄金、つまり人間ならば服に相当する部分を、少量ずつちょこちょこ剥がして配る。おとぎ話なんだから「夜中に王子の像が動き出し……」という展開もアリのはずだが、彼はあくまでも動けない。だからツバメにやってもらう。自分の服をちょっとずつツバメに剥がさせていく。しかもそれが公衆の面前で進行している。

なんだかストリップみたいである。子供だからさすがに「ストリップ」という言葉は浮かばなかったが、「えーっ、やだぁ」と、何か俗悪な印象を受けた。最後の方になって、王子の黄金塗装が尽きたので、眼球としてはまっていた宝石を提供する。ここに至ってようやくエロいなどというレベルから完全に脱却し、話が美しくなってくる。

しかしなんといっても、ツバメを死なせてしまったことが王子への反感の最大の原因だろう。自分が彫像だから生き物のもろさがわからなかったのか、それとも人助けを考えるわりには身近な者への配慮を欠いた、トボケたところがあったのだろうか。貧乏な人ばかり気にして、相棒であるツバメを気遣うセリフが一つも出てこないのはどうしたわけか。

気遣いとは「ツバメさん、そろそろ南国へ行かなくていいの?」なんて尋ねることではない。ツバメが渡りの時期を逃しそうになった時すかさず「ボクは慈善活動に嫌気がさしたし、おまえのアホ面も見飽きたよ。ああ鬱陶しい、もう来ないでくれ」と言うことである。

 と私は思っているのだが、こうなるとちょっと韓国ドラマに出てくる男みたいである。こういう「やさしさ」は東洋人特有の発想なのか。それともワイルドの時代にはなかった、現代的な発想というべきなのだろうか?

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