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2008年3月

2008年3月31日 (月)

できあがり

004 個人誌の印刷が完了しました。

 アラビアン・ナイト風耽美ファンタジー

 「異海淫靡奇伝」

 以前、第一章だけコピー誌で作ったことがあったのですが、こちらは完全版になります。読みきり。

 アラビアン・ナイトの、ゴージャスで官能的、それでいて時にぎょっとするほど粗野で暴力的な部分を内包した世界……のようなものを書きたかった(舞台が古代ペルシアなわけではなく、架空の世界なのですが)。もちろん、登場人物が次々と身の上話をして、そのひとつひとつがショートストーリーとして完結している、という手法も挑戦。

 表紙は、縦に凸凹ラインが入ってて独特の手触りの紙にしてみました。しまや出版というところでお願いしたのですが、すっごくキレイで読みやすかったです。

 イベント・即売会で出品します。ご希望の方には、郵送させていただきます。詳しくは、サイドバーの「個人誌」をご覧下さい。

 

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2008年3月24日 (月)

About Making

20080302_2

←番長沙蓮

 

 来週印刷が完了する予定の個人誌は、このブログでも出品させていただきます。

※あとがきを書いている時間がなく、本文だけ印刷に出してしまった。なので以下に製作に関するエッセイを記載させていただきます。

そうさく畑62 4月6日のイベントそうさく畑は、スペース4丁目1番地、サークル「LYCANTHROPE」で出店します。会場アクセス

○挑戦

以前、長編ファンタジーを書く男女3人を知っていた。この3人には共通点があった。それぞれ作風は違うものの、贖罪とか宿業とかいうようなことを好んでテーマにするのである。この点は好きになれなかったが、3人はまた、私をはるかにしのぐ長所も持ち合わせていた。彼らは実に見事なプロットを作るのだ。そして、建築図面に従ってビルでも建てるように、迷うことなく、最初から最後まで一気に何百枚もの原稿を書き上げる。これは私にはとうてい真似できないことだった。

 あるとき飲み会で、会計士だという人と隣り合わせた。彼は数字を使ったゲームを紙切れに書いた。簡単なものだったのかもしれないが、私の数学の成績は惨憺たるものだったし、球技やトランプでも、少しでも戦術を要することは必ず負ける。いやいやながら付き合っていると「俺が勝ったらホテルへ行ってもらう」と言う。私は即座にゲームに使っていた紙切れを丸めてコップに入れ、相手の頭の毛をつかんだ(薄くなりかけたネコっ毛が彼の弱点だと踏んだからだ)。ゲームに負けることはわかりきっていたが、瞬発力と残忍さにかけては私の方が上だった。

 それと同じように、私の小説にも何らかの武器、長所があると信じている。会計士たちは私の倍(ことによったらそれ以上)の月給を稼ぐ。でも私は、彼らには一生かかっても作れないものを作ってやるのだと思っている。

しかしながら新人賞を取った小説にたいして選者たちが口癖のように言う「計算しつくされたストーリー」「巧妙きわまる人物配置」などという、芸術家というよりはそれこそ会計士や棋士にでも寄せられるような賞賛の言葉を見るたび、「どうせ私は」と開き直りに近い気持ちになる。「こんな私には書く資格はないんでしょうか?」という疑問を小説技法の先生にぶつけたこともある。先生はさりげなくごまかしてしまわれた。だから自分で考えるしかない。そして長編は、とにかく書いて完成させるごとに、ひとつひとつ何かがわかる。ただし気が遠くなる。

○恋について

 あらすじをざっと話しただけで「そんなこと書いて自分で恥ずかしくないのか」と聞かれたことがある。このようにおっしゃるのはアンジェラ・カーターも倉橋由美子も読んだことがない人か、もしくはサービスという概念がないのだろう。とはいえ性描写は流血シーンと同じく、人によってはサービスどころか敬遠される原因になる。好き嫌いはどうしようもないから関知しない。しかしもし、迫力が足りない、あるいは自己満足だ、と思われてしまうとしたら、それは私の力不足のせいに違いない。

 両性具有モノは少女小説家として一度は書いてみたかった。そして自分なりの解釈で表現できたと思う。たとえば一口に「ドラゴン」といっても、ウロコは何色なのか、寿命はどれくらいか、性格は凶暴なのか賢いのか、火は吹くのか、飛行できるか否か、爬虫類の生態をふまえたリアルなものからまったく荒唐無稽なものまで、作家によって十人十色のドラゴンが出来上がる。それと同じで、これは私にしか書けないものだったと確信している。タニス・リーの「死の王」には遠く及ばない。でもヴァージニア・ウルフの「オーランドー」に対して私が感じた不満だけは、絶対に読者に与えまいと心に誓った(その不満とは、オーランドーの精神性ばかりを重視して生理機能をまるごと無視したことだ)。

 

私は、スティーヴン・ハンターがゼロ・セクシュアルと表現したところの、透明で植物的な感じの「中性的な人物」は書きたくなかった。むしろなんとしても避けたかった。私の願いは、精神の解放でもなく、哲学的な真理に到達することでもない。つまり、宇宙人や精霊や仙人を書くことではない。非常に女らしいと同時に非常に男らしい、いわば恋と人生における究極のスペシャリストを創造すること――それに尽きる。残念ながら成功したという確信はない。道程半ばのような気もする。

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2008年3月17日 (月)

ライラの冒険を観た

 ハのつく映画はつまらないし、指輪の話は硬派すぎて好みではない。私はホビットが嫌いだ。学校も嫌いだし旅も嫌いだ。ファンタジー映画を見ていると時々「あたしやっぱり都会人なの。ごめん!」と頭を抱えて逃げ出したくなる。

 最近のファンタジー映画の中では「ライラの冒険・黄金の羅針盤」が一番おもしろかった。そして一番違和感がなかった。

街並みがステキで、「ダークシティ」もよかったが、これもなかなかの映像美。片田舎なんかウロついてないで一気に北極へ行ってしまうところも、なるほどいいアイディアかもしれない。建物だけでなく小道具も乗り物もファッションもすべてオシャレ。緊張感はあるが同時に生活感もあり、何かしっとりした情緒を感じさせる。

ライラは期待以上に好感の持てる人物だった。おそろしく健全だが、宮崎アニメに出てくる「元気な明るい女の子」たちのようないやらしさがない。あくまでも自分自身の要求をベースに行動するという感じがどこかにあるので、わざとらしくないし、恩着せがましくない。

エンディングテーマも気に入った。ただ、最初からシリーズになっていて、一作目を観ただけでは謎が解決しない映画にはちょっとうんざり。

「あれ鳥?」

「いや、魔女の大群だ」

という会話の後、暗い空がアップになると、本当に無数の人影が飛んでいる。これがツボにハマって、しばらく笑いが止まらなかった。

ただ私の考えでは、魔女とはそれぞれが自分勝手に行動するものであって、群れるもんではない。集まるのは大晦日のサバトか、宴会の時だけにすべきだ。しかしこの映画の中では、まるで空軍部隊のように行動している。そして、これといって魔法技がない。単に飛行能力があって弓のうまい人々、というだけである(ちなみにホウキには乗っていない。自力で飛んでいる)。空中を浮遊しながら正確に矢を射るのはかなり難しいはずだが、それも魔法というよりは、日頃からしこしこ練習でもしていそうな雰囲気である。

もうひとつ、魔女は男を愛してはいけない(もてあそんだり、恨みを根に持つのは良い)。うかつにも愛してしまった時は自分ひとりの胸に深くしまいこみ、間違っても「この船に私の愛した男がいる」などと人前で口にするもんではない。魔女たるもの用もないのに朝の7時に起床してはいけないが、それと同じくらいいけない。

そんなわけで、原文はどうなっているのかわからないが、これは魔女ではない。セラフィナはたいへんカッコイイのだが、魔女として認めない。「仙女」とでもいった方がイメージが近い。だから私の中では仙女と呼ばせてもらうことにする。

コールター夫人の方がむしろ魔女的だ。ただし、「いかにも大人の男が考え出したようなヤな女」だなあ、と思わせるところがまだまだ未熟者だ。魔女はもっと激しく変でなければならない。魔女は権力と手を結んではならない。しかし私の魔女論はどうでもいい。もう寝るか。

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「あなたのダイモン判定」をやった。守護動物は「トラ」(悪い気はしない)

映画「ライラの冒険 黄金の羅針盤」公式サイト

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2008年3月 9日 (日)

オールキャラ・アウトロー「ジャンパー」

Poster021  間違っても超能力→ヒーローという図式には従わない快楽主義の若者デヴィッド。さらに、父も変人、母も変人、敵も変人なら仲間も変人といった具合で、真に良心的な大人が存在しない。いわば「変人と変人のぶつかり合い」とでもいったような映画である。

マイナーな者同士が大真面目に衝突している点や、独特の人間関係は、なんだかネット社会を連想させる。とても現代的な映画。

唯一マトモなのは何の力も持たないミリーで、主人公は彼女を守ることでかろうじて堅実さを表現する。

 

「ジャンパー」とは、生まれつき瞬間移動の超能力を持つ人々(しかし団結力はない)。瞬間移動できるから、悪いこともする。彼らを追うパラディンという組織はあるが、取り締まるというより、虐殺するしか能がない。これだけの技術と組織力があるなら、ジャンパーの少年院でも作って躾けたらどうかと思うのだが(5歳でジャンパーだとわかるなら、教育次第では大活躍しそうだ)。

抹殺人のローランドというのがまた、非常に憎たらしい感じの、許しがたいオヤジである。彼らに孤児にされた先輩ジャンパー・グリフィンのひねくれぶりがハンパではなく、殺伐とした世界を表現している。

デヴィッドの母も、自分がそばについていてどうにかしようという気はさらさらなく、親の務めよりも己の信念を優先させた形だ。しかしこのラストは良いと思う。巷に多いマザコン監督には、こんなふうな個人対個人という形の母子描写はなかなかできない。

 それにしても、15歳のデヴィッドがジャンプ能力に目覚め、家出して銀行強盗になって自由気ままな一人暮らしを始めるあたり、もしも私が15歳の時に観たら涙を流してうらやましがったに違いない。夢のような状況だ。

 ところがその後の、帯電ワイヤーやネットランチャー(?)でお仕置きされる時の悲鳴は聞いているだけでイタイ。胃がむずむずしてくる。苦痛の表現が見事だ。デヴィッド役の俳優、上手い。

そんなわけで、

ワルぶって調子に乗っていた若造が、世の中にはもっとイカれたヤツやもっと恐ろしい連中がいるんだということを知って、痛い目に遭い、ちょっとイイコになって帰ってくる……という、ハリウッド映画にありがちなプロット。この筋立てはホラー映画や怪談にも通じるものがあって、私はけっこう好きだ。

ちなみにハヤカワ文庫から原作が出ているのを発見した。いずれこれも読んでみたい。

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2008年3月 2日 (日)

わたしのターミネーター君

002  昔、知り合いにちょっと変な男がいて、「その時計どこで買ったの?」ときくと「2時30分」と答え、「好きな果物は?」ときくとなぜか「消防署」という返事が返ってくる。当然会話もちぐはぐで、口論ともなるとポカンとして一言も言い返せない。とても知的とは思えない。ところが不思議なことに、そんな彼がチェスだけはきちんとできる(少なくとも私よりはまともにできる)。だから私はチェスが「知的なゲーム」と言われても到底信じられない。少なくとも、私とは脳の構造が違う人間の好むゲームなのは確かだ。

 他にも何人かのチェス好きな人と遭遇したし、中には親切に教えてくれようとした人もいる。ただ私はこういうことが本当に苦手で、手も足も出ない。興味がないとか本気を出していないとかいう問題ではなく、とにかくダメなのだ。

 あるとき友達夫婦の家に遊びに行ったら、旦那さんがチェスボードを出してきた。すると奥さんが急にプンとして「あたしやらない」とあっちへ行ってしまった。そこでだいたい予想はついたのだが、「客であるあたしに対して、まさかね」という思いもあり、おそるおそる相手になったところ、案の定ぜんぜん手加減してくれずに大勝ちしている。ご満悦な旦那さん。こんな調子なので、「フン、あんなしちめんどくさいゲームのどこがいいのよ。まったく男って、バカじゃないの!?」とイヤになり、長らく手をつけていなかった。

ところが、そんな私にチェスの素晴らしさを納得させてしまった彼が一人だけいる。それは「ターミネーター君」。彼は人間ではなく、パソコンに入っていたチェスゲームのソフトなのです。これをなんとなくいじっているうち、実に良くできたゲームだと気付いた。今では、あれをおもしろがる人の気持ちがよくわかる。

 ところで「ターミネーター君」という名のソフトがあるわけではなく、架空の対戦相手に、私が勝手に名付けた。なぜかというと、

映画「ターミネーター2」の中で、サラが、人間の男よりもロボットの方がいい父親になりうることに気付いてしまうシーンがある。その理由はうろ覚えだが確か「酒も飲まない、暴力もふるわない。ただひたすらジョン(息子)を守ることだけを考える……」といったようなモノローグ。

チェスのコンピューターソフトもそれと同じで、機械だからこその良さがある。わたしのターミネーター君は焦らない。決して強要しない。レベルを合わせてくれる。無言のまま、自分の動きによって穏やかに的確に手本を示してくれる。初級モードでもぜんぜん勝てないド下手な私に、常に変わらず淡々と、限りなく辛抱強く、相手になってくれる。何より私に勝っても喜んだり、得意になったり、嘲笑ったりしないので、負けても腹が立たない(ここが重要!)

ちなみに「負けた悔しさをバネにする」という言葉がある。これはよっぽど好きなことをしているか、もしくはそれまで別の方面で散々勝利してきた蓄積があり、はじめてプライドがへし折られたような人にしか当てはまらない。苦手なことにおそるおそる手を出している時にバネも何もないんである。

ということは、これからの時代、何か新しく始めるときは、「人間の先生」と「コンピューターの先生」を、適当に上手に使い分けていくと良いのではないかと思う。たとえば下手な生徒にイライラしてばかりいる自動車教習所の先生なんかはいっそロボットになって欲しい。

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