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2008年4月28日 (月)

ゲーテなんかどう?

Kc330061_2  ←古本(昭和33年版)ちょっと汚れている。

「若きヱルテルの悩み」
ゲーテ著 竹山道雄訳
岩波文庫

 綺麗で母性的で親切なシャルロッテに惚れたウェルテル。しかし彼女はすでに婚約しており、まもなく人妻となる。それでも足しげく通って親友として交際を続ける。夫も最初は許しているが、次第にあやしむようになり、シャルロッテ自身も危険を感じて彼を遠ざけようとする。

 この本が流行した当時、ウェルテルに憧れて自殺する若者が増えた……という話をよくきく。たしかにこのウェルテルは教養もあり、一途で、実に感受性豊かな愛すべき若者であるとは思う。彼が自分の思想を語る部分は、私から見ても共感できる部分がたくさんあるし、こんなの今じゃ常識だよ(当時はパンクだったかもしれないが)というところもある。
 愛すべき性質なのはヒロインのシャルロッテも同様で、ここに出てくる人たちはたいへん素朴で操正しい。
 しかし同時に、というかだからこそ、ものすごくいやらしい。たぶんこの人たちは、自分が何をやっているか、この状況が何を意味するか、という自覚や客観性がなさすぎるのだ。

 たとえば、ウェルテルの記述にある、
 「アルベルト(シャルロッテの夫)が外出するのをこっそり窺っている。そしてそれ今だ、とばかりに出かけていって、シャルロッテが一人でいるのを見るとほっとする。逆に二人が一緒にいるところに来てしまった時は、おどけたふりをして、ふざけ散らして邪魔をせずにはいられない」
 というあたりは、オスのチンパンジーの心理描写をしたらこうなるんじゃないか、というくらい動物的だ。
 シャルロッテの方も負けてはいない。
 夫がウェルテルとの交際に難色を示し始めると、そうだウェルテルが自分の女友達の誰かと結婚してくれればいい、と考える。そうすれば自分たちのプラトニックな恋を温存できる。しかし同時に彼を自分ひとりのものにしておきたい、という欲望もある。そして自分の知り合いをひとりひとり思い浮かべてみるが、みんなどこかに欠点があって、彼を渡してもいいと思うような女はいない、と言う。
 まったく、何といういやらしい女だろう。こんな女が自分の友達だったら迷惑以外の何ものでもないではないか。

 こういう男や女は現実にもごまんといるわけで、当人は麗しい恋のつもりだか何だか知らないが、彼らの無自覚で恥を知らない計算高さや利己主義にはうんざりだ。
 ゲーテを賞賛する人は、この小説を汚らしいとは思わないのだろうか?(ただ、それでも最後には、ウェルテルもシャルロッテも単なる利己主義に留まらない選択をしてきっちりとツケを払い、自分たちの人間性を証明する――そこが品がいいといえば品がいいのだが)
 作中に、ウェルテルの知り合いの下僕の事件が出てくる。彼は自分の仕えていた屋敷の女主人に惚れて肉体関係を迫り、追い出された後、彼女と結婚する予定だった男を殺して逮捕される。
 これに対してウェルテルは、「自分はこの不幸な男の半分の気性も、半分の決断ももってはいない」と語る。私もこれには思わず「まったくもう、ほんとにそのとおりだよ」と声に出して言ってしまった。
 もちろん下僕の行動は正しくはない。ただ私はそこにある種の矛盾のなさ、感情と行動とが完璧に一致しているというプリミティヴな美しさを感じる。ウロウロしているだけでシャルロッテを奪いもしないウェルテルよりも、キャラクターとして魅力的なことは確かだ。私だったらウェルテルよりもこの下僕の方を主人公にするのに。

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