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2008年4月21日 (月)

日本のB級小説を読んだ

21rvcm315pl_sl500_aa140_1  ひょんなことから手にとってしまったが、たいへん読みやすかった。「十四歳、ルシフェル」中島望著 講談社ノベルズ

 この物語は、

 14歳で暴走族に惨殺されたが、女友達の祖父(大富豪)の研究室に拾われ、サイボーグ「ルシフェル」として復活した少年。

 最初は記憶喪失になっていたが、そのうち復讐心に目覚め、自分を殺した人々に制裁を下す。それがだんだん勢いづいて、とにかく嫌いな者や邪魔な者を消してゆく(悪人を倒す、というよりも当人の主観による「殺したいヤツ」である)。

 この小説の一番の売りはたぶん、ブラックユーモアあふれるスプラッタな虐殺シーンだ。「目玉が飛び出し」「小腸が吹き出す」などなど、しばしば読むのを中断して5分あまりも大爆笑してしまう。よくこれだけ十人十色の殺し方を考案したかと思うと、感嘆の念がわいてくる。

 一番痛快なのは宿敵・車田の殺害だった。車田は主人公を殺した張本人だが、それと同じやり方で報復される。彼は主人公の愛する少女を強姦もしたので、股裂きの刑のような状態になるのが粋だ。また彼は東京の大学へ行きたがっている。それがルシフェルに高速道路を引きずりまわされているうち八王子インターを越えてしまい「本当に東京に来てしまった」というしめくくりの一文は、抱腹絶倒だった。

しかしこれをピークに、その後はちょっと飽きてくる。サイボーグになったルシフェルは超人的力を持っているから、狙った相手は必ず倒す。最初から結果がわかりきったバイオレンスをスリリングに書くのは難しい。作者はそれでも一生懸命、流血シーンをたたみかけてくる。その根性がすごい。たとえ三度のメシよりスプラッタが好きだったとしても、こんなにいくつもの殺害方法を考案するのは大仕事のはずだ(いや、ほんとのところはわからない。少なくとも私だったら苦労する)。

ただこの小説、パンクのように見えたがパンクではない。硬直性がやや難。

ヒロインの百合子は、主人公の死を目の当たりにし、さらに性的暴行も受けた気の毒な少女である。しかしそのことは人間の値打ちとは少しも関係ないので、ある意味では「それがどうした」である。ルシフェルが百合子を描写する様子はどうも「傷物になったけどそれでも好きだ」と言わんばかりの、意地や執着に近くてみみっちい。「だからどうした。彼女は彼女だろ」という骨のある愛ではない。だいたいがこんな調子で、自分以外の男はすべて不純で汚いとでも言わんばかりの嫉妬深い少年である。

 そしてこのルシフェル君、肉体がサイボーグ化されると、性的にもシラけきって一切の興味を失う。この現象は、私は半分しか納得できない。情事とはつまりコミュニケーションなので、脳が生身なら肉体の方は、脱着式でも、なんとでもなる(むしろ便利だ)。首から下がロボット=その気もゼロ、という図式を成立させるためには、情事にまつわる他者との交流、探求、サービスなどといった精神性をすべて取り払い、肉体の(それもごく末端の)満足だけを念頭において性を定義せねばならない。女の私にこういう末端神経的定義を強いないでもらいたい。

 とにかくその延長で、彼は「自分はもう家族をつくれない」とも言う。しかし人が本気で家族を欲しいと思ったら、こんなことでは諦めない。サイボーグが機械工のじいさんに拾われて一緒に暮らしているとか、身寄りのない子を面倒見ているとかいうSFもあるわけで、血の保存という枷がないなら、逆にどんな形もアリなのではないか。ただルシフェルの言う「家族」とはあくまでも妊娠可能な女性と、自分の血を引く子供、というところに限定される。こういう「家族」の定義が、私はあまり好きではない(でも暴力シーンであれだけがんばっているんだからそっちは許そう)

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