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2008年6月

2008年6月30日 (月)

「七悪魔の旅」

51zcy6kbyvl_sl110_1  これはたいへんおもしろい本。本屋でちょこっと立ち読みして、個人的に「絶対おもしろい」と確信してずっと欲しかった。しかしやや値段が高め。とりあえず図書館で予約して借りた。

 「七悪魔の旅」マヌエル・ムヒカ=ライネス 中央公論新社

 「七つの大罪」をつかさどる悪魔たちが、大魔王の命令で人間を堕落させるための旅に出る。

人間側もジル・ド・レエの未亡人が出てきたりしてゴシックなのだが、それぞれの悪魔の個性がたのしい。大食の悪魔は食いしんぼうだが同時に優秀なコックで、お人よしの面も持つ。貪欲の悪魔はつぎはぎの翼を持ち、ドケチで、ガソリン代をケチる。淫乱の悪魔は「豚の顔にウサギの耳」という変なバニーガールのような生き物だし、怠惰の悪魔は眠ってばかりいる(しかし、もっとも強大な力を持っているのは実はこの怠惰の悪魔だ。私はなんとなく怠惰の章がいちばん好きで、怠惰の悪魔の最後の言葉も好き)。

その他の悪魔もみんな「自分は人類の発展に貢献している」という悪魔哲学を持っている。そして議論好きで、ことあるごとに自分の重要さを主張する。そんな悪魔たちが遠い未来に飛んで、社会のあまりの清潔さを見て気落ちしていたとき、傲慢の悪魔だけがあいかわらず意気揚々としていたおかげで他の悪魔がちょっと元気付けられる……というあたりはなんだかリアルだ。そう、意味もなく自惚れの強いやつってたまに人を救うんだよな……。

 それにしても、もとは何語だったのか(著者がアルゼンチン生まれなのでスペイン語かもしれない)大学生が英文をいっしょうけんめい訳したかのような、ちょっと奇妙な文章が特徴的だ。翻訳モノに慣れない人が読んだら怒るんじゃないか、と心配してしまった。たとえば、悪魔たちが宇宙空間を飛んでいる時、宇宙船をみつけた嫉妬の悪魔がのたまう。

「あきらかにあれらの宇宙船は我々のものよりもよい。破壊してしまおう」

と、なんだか英訳のテストの問題文のようだ。訳者の西村英一郎とはどういう人なのかと思ったら、大学の教授らしい。先生を長年やっていると「あれらの」などという言葉に違和感をもたなくなるのか、それとも隅々まで正確にしないと気が済まない人なのだろうか。

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2008年6月23日 (月)

「夜愁」を読んだ

Imgp5137  雨の日にロンドンの話を読む……ただしこれは爆弾の雨がふりそそぐ1940年代ロンドン。

大好きなサラ・ウォーターズの「夜愁」上・下 中村有希訳 創元推理文庫

 独断で順位をつけさせてもらうと、私はサラ・ウォーターズの小説は「茨の城」が一番好きで、2番目は「半身」、3番と4番はなくて、5番目にこの「夜愁」がくる。まず時代設定が近代過ぎていけない。私はヴィクトリア朝を舞台にしたのが好きだったのに。ひとつ考えたのは、「作者がウォーターズだということをいったん頭から消し去ってから読めばよかった」ということだ。

 しかし女と女のロマンスはやっぱり健在だった。金髪がお好きな紳士ケイ、美人の推理小説家ジュリア、その2人に翻弄される、一見キュートだが激情家のヘレン……という三角関係はスリリングでおもしろい。

 今回は、登場人物が全員変態、といっても過言ではない。そして前作にもまして同性愛者たちがリアル、というか写実的(ミッキーみたいな女、日本にもいる。というか見たことある。ジュリアみたいなのも絶対いる。ヘレンは、そこらにいても見過ごしてしまう)。

 唯一ストレートの女ヴィヴ。その彼氏がものすごーく軽薄に、薄汚く描かれている。ただしこれもゴシック調の悪党ではなく、「うわっ、こういう男いるよな」というリアルな下郎だ。それにくらべると他の変態たちがなんとけなげで純真に見えることか。この男に比べたら、プライドの高い身勝手なジュリアでさえも美しい。ヴィヴの章は、不倫、嘘、中絶……と異性愛の暗黒面を結集したような物語に仕上がっており、少なくとも私は彼氏のセリフを読むたび、あまりの不快感にぞわぞわと鳥肌が立った。

 第二次世界大戦のロンドンが舞台なのだが、戦争の悲劇をストレートに説教臭く書かないところが好きだ。爆撃の中で恋が生まれ、不確かな状況のためによりいっそう情熱的に人との繋がりを求める人々。ときには、危険や混乱をまるで恋のスパイスとして利用しているかのようなしたたかさすら感じさせる。

 なかでもケイは救急隊員として「ヒーロー」と称されるほど大活躍し、壊れた家屋から救出した好みの女の子と暮らす。しかし戦後の平和の中では生きがいもなく、トラウマに苦しみ、女にもすてられ(パニックから生まれた恋だからはかない)、抜け殻のようになっている。ある意味「ランボー」パート1のような悲しさだ。

 最近、日本の不遇な若者の一部に「いっそ戦争でもあればいい」という考えがあるらしい。男の消えた町を華麗に駆け回っていたらしいケイを想うと、私も「宇宙人でも攻めてこないかな」と思う。しかし一時的に大活躍したとしても、しょせん刹那的なものなのだ。またすぐに時代が変わって、用済みの廃人と化し、そうなっても誰も面倒みてくれない――そんなこわさがある。

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2008年6月16日 (月)

からくり人形をみた

野坂オートマタ美術館を観てきました。

 昔のヒューマノイドロボット。動くビスクドール! 19世紀から創られだした機械仕掛けの、西洋からくり人形たちでした。もとは時計職人が考え出したものだそうです(そういえば、カッコー時計とか人形が踊る時計がある。そこから人形だけ独立させてみよう、という発想だったんだろうか?)

 浮世離れした幻想性を追求したものはあまりない。ここの人形たちは意外に生々しく、人間臭い。口から空気が出る仕掛けになった「シャボン玉を吹く少女」などはまだかわいいが、人形のくせに酒は飲むわタバコは吸うわで、あまり教育上よろしくない動きをするのも多い。子供の玩具、というより、大人が楽しむためのものだったのだなあ、と実感。

Kc3300672_2 買ったポストカード。この人形そのものは展示されていなかったような気がするが、動きが映像で紹介されていて妙に印象的だった。大道芸人の人形がベンチで飲んだり、居眠りしたりしている。「商売道具の手回しオルガンが壊れちゃったからヤケ酒くらってる図」なのだという。大道芸人の人形なんだから芸をする仕掛けにしよう、と考えるのが普通の発想なわけだが、あえて芸をしないという、ちょっとひねくれた発想で意外性を出している。 

 自動人形は決められた同じ動きだけを永遠に繰り返すわけだから、たとえ「最高にうまくいった瞬間」を表現していたとしても、どことなく不気味なものを感じさせる。その人形がカンペキな優等生であればあるほど痛々しい。そこで逆に「ツイてねえなあ」とか「失敗しちゃった」とかいう表現をされると、本来人形の仕掛けに変則はないのだが、あたかも変則的な(つまり自由な)動きが可能であるような錯覚を起こさせて、かえって開放感を漂わせるのかもしれない。

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2008年6月 9日 (月)

アリスのこと②

 今でもロリータファッションのモチーフとしてよく使われるアリス……について考える(といってもロリータさんたちを惹き付ける理由は、けっきょく私にはよくわからない。私はアリス風の服を着たいと思ったことがないので)

Imgp4827 最近見つけた古い本。「アリス幻想」高橋康也編 すばる書房

寺山修司の短編がのっていた。とくに探しているわけでもないのに、興味のある本をあさっているとたびたび出会う寺山修司。神出鬼没なおじさん。

アリスの本の挿絵はジョン・テニエルが描いたものが有名なのだが、それ以外の画家たちが描いたアリスの絵がいろいろ出ていておもしろかった。アーサー・ラッカムの挿絵は本家テニエルのものより断然美しいと思う。ただ出版された当時批判されて本人がやる気をなくし、二作目の「鏡の国」はまたテニエルに落ち着いたという逸話があるらしい。

↑この「アリス幻想」の表紙に使われているのはラッカム。ごらんのとおりラッカム画のアリスは、かの有名なエプロンドレスを着ていない。スカートもパニエでふくらませていない。もしも挿絵画家がテニエルでなかったら、アリスファッションも存在しなかったことになる(それでもロリータファッションは存在したはずだ。ただそれがアリスと結合しなかっただけで)。

Imgp4825 私は小学生のとき、11か12歳頃に「不思議の国のアリス」を読んだが、最初は「わけわからん」という希薄な印象しかなかった。続いて「鏡の国のアリス」に手を出すと、こちらは格段に読みやすかった記憶があり、あっという間にアリスの虜になってしまった。

「不思議の国」の方も、別の訳者の、詳しい注釈つきものを買ってもらって読み直した(写真・「東京図書」発行)ら、なかなか古風で味わい深いものだった。(そうなると最初の本は訳が悪いから意味不明だったのか、とも思うが、実際原作の方も「鏡の国」の方がわかりやすい構造を持っているらしい。「不思議の国」を子供向けの本として訳すのはとても難しいと思う)。

あの頃、アリスの中核とされている風刺もチェスもわからないで何がおもしろかったかといえば、「鏡を通り抜けて別世界へ行く」というアイディアや、女王やユニコーンなどのキャラクターの強烈さだった。主人公のアリスにはそれほど魅力を感じなかった。私が深く感じ入ったのは、常識人のアリスを困らせるモンスターたちの存在と、彼らが決して優等生的理論で断罪されることなく、堂々とそれぞれの変人生活を営んでいたことだ。

あの時の私にとって「変でもいいんだ」という悪い教科書だったように思う。

知っておかなければならなかったのは、主人公のアリスちゃんが並外れていい子だということだ。不思議の国のイカれた住人たちにたえず驚かされ、時にはイライラしながらも、常に公平で、率直で、きちんと対話しようとする。それなりに付き合ってやっているのである。それに、モンスターたちは不思議の国だからこそ生存可能なのであって、地上世界では無力のような感がある。それでも、不思議の国が、たとえ本の中であるにせよ、存在することは救いなのだ。

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2008年6月 2日 (月)

アリスのこと

Imgp4824  こんなの出てきたのです。これは私にとって「不思議の国のアリス」本作以上に楽しかった本。

「アリスの国の不思議なお料理」ジョン・フィッシャー作 開高道子訳 文化局出版(昭和53年に初版が出て、今でも再版されたものがあるらしい)

アリスワールドにちなんだ料理の作り方がいろいろ紹介されている。主に英国式「お茶の時間」のための食べ物で、夕飯のおかずという感じではないが単なるお茶菓子よりは重い。

この本を手に入れた当時中学生だったので、比較的簡単に作れそうなものをいくつか作ってみたが、おもしろいだけじゃなく本当においしいのだ。「ハの字ハムサンド」「お食べなさいケーキ」はお客様にも好評だったし、「二刀流きのこ」「鏡の国のミルク」など、どれも生まれてはじめての、忘れられない味だった。

ただし本場西洋料理のやり方なんぞに馴染みのない家族からは、(バター等の素材の使い方が)贅沢すぎる、と繰り返し釘を刺された。我が家は外食一家で、外で食べる分にはずいぶん気前良かったものだが、いざ家の台所で大量の生クリームやバターが使われるのを見るとビックリ仰天するのである。

このように、子供でも作れるレシピもあるのだが、多くは手間隙がかかる上に、材料が手に入れにくかったり、聞いたこともないようなものだったりする。たとえば羊の脚なんか、そこらの店にはない。だから、今に至るまで一度も手をつけていないレシピもたくさんある。オーブントースターでプティングを作ろうとして失敗した記憶もある。(のちに、本にある「オーブン」は自分の家にある「オーブントースター」とは違うことに気付いた。「カマド」とでも訳してくれたほうがありがたかった。しかし「卵のココット・アリス風」は強引にオーブントースターで作り、時間を長めにして、なぜか成功した)。

 そういえばイギリスの食事はまずいと言うが、この本の著者はオックスフォードの卒業生だという。だからおいしいイギリス料理も、たぶんあるのだ。とくにこの本では、ルイス・キャロルの生きていた時代を髣髴とさせる、優雅でのんびりとした世界を垣間見ることができる。材料のことはひとまずおいておくとしても、この時間的贅沢さはただ事ではない。とくにすごかったのは「おしゃれゆで卵」というレシピで、これもまたおいしいのだが、二度と作らなかった。いったいどうしたら、たかが模様入りのゆで卵を作るためにこれだけの時間と情熱をかけられるのだろうか? ここまでくると、料理なのか文学なのか、はたまた芸術なのか謎である。

 ただし著者の解説によると「アリス」の作者ルイス・キャロルの時代にはビクトリア式の厳格な食事作法を強要された上、3人の兄弟と7人の姉妹にはさまれて苦労したらしいから「おまえこそが贅沢だ」と言うかもしれない。この解説にはキャロルの食へのこだわりについて書かれているのだが、たしかにアリスの中の「セイウチと大工と牡蠣の詩」なんかは、読んでいてぎょっとした記憶がある。どうして裕福なはずの坊っちゃんがこういうことを考えつくんだ、というくらいせちがらくてダークな内容なのだ(そしてこの本にもやっぱり「牡蠣の大宴会」というレシピがある。この詩を見たあとでこれを食べるのか、というシュールさだ

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