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2008年7月28日 (月)

見たような、見なかったような。わたしの幽霊たち

055  小学生の頃、夏休みにキャンプ場で焚き火を囲んでいた。ふと見ると、誰も居ないはずの林の中に、不気味な白い顔が見えた。「グレイ」と呼ばれる宇宙人みたいな感じだが、その時は「小柄な女性」と思った。その白い顔が、木に半分隠れるようにして、身じろぎもせずじっとこちらを見ていた。

 2人の友達にその方向を示して「見える?」ときくと、1人はあっけらかんとしたドライな口調で「ああ、あれね。たしかに幽霊の顔みたいなのが見える」と答えた。もう1人は「そんなものは見えないし、そんな話も聞きたくない」と言った(これはちょうど恋愛まっさかりの女の子が、友人から「あたしは恋なんか信じないし、そういう話も聞きたくないわ」とあしらわれたような心境、と思っていただきたい)。

 さてその顔はいったいなんだったのか、けっきょくわからずじまいだった。翌日の昼間、林にわけ入ってその場所を調べたが、闇の中で顔だと錯覚させるような物体はこれといってなにも見当たらないのだ。それでも「夜になったらまた見えるかも」と期待した。なんらかの物体と影の加減で人の顔のように見えたのなら、暗くなればまた同じものが見えるはずだからだ。ところが二日目の夜には、なぜか木の陰からのぞく顔のようなものはまったく見えず、例の潅木の横には、ただからっぽの闇があるだけだった。

 そんなような出来事ならいくらでもある。ただ、その当時「キャンプ場で幽霊を見た」などと堂々と他人様に語ることができたのは子供だったからで、本当のところは目の錯覚だったのか幻だったのか、なんともいえない。

 「モーパッサン怪奇傑作集(榊原晃三訳、福武文庫)」という本があるのだが、登場人物の1人が次のようなことを語る。

 「命の危険に直面したときの感情は、単なる興奮やパニックであって、恐怖とは違う。心底震え上がる体験というのは、そんなことではない。真の恐怖とは身の危険にさらされることではなく、何か奇怪なことが起こって、その理由がわからないこと――正体がわからないということなのだ」

 そのあと彼は自分の怪奇体験を語る。「こんな不思議なことがあって、とても恐ろしかった。しかしその時、決して自分の身が危険にさらされていたわけではない」と話をしめくくり、身の危険=恐怖ではないことを強調する。

 別の登場人物は言う。「何もかも解明されてしまう現代には、もう恐怖などというものは存在しない。謎がなければ恐怖も生き残れない」。他の人物にも同じようなことを言わせているので、モーパッサン本人の考えだったのかもしれない。彼の生きた19世紀当時の風潮もあるだろう。

 しかし「相手の正体がなんだかよくわからない」ということは、本来言葉にはできない感覚なのかもしれないし、物語として構築するのも難しい。最近のホラー映画といったら、切迫した命の危険を強調するものがほとんど。モーパッサンに言わせたら「そんなのほんとの恐怖じゃない」ということなのか。

 現代には現代なりの恐怖がある、と思う。ただそれはレトロな恐怖とは違っていて、昔の人が持っていた正体のわからないものへの戦慄や畏怖は、私のように虚構の世界を手探りしてその残滓をなめるくらいしかできないのだろうか。

ほんとのところ、恐怖ってなんだろう。そんなことを考える夏の宵でありました。

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