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2009年2月

2009年2月22日 (日)

サークル参加予定

Imgp1133 禁断の乙女の園へ行ってまいります!!

J.GARDEN26に出品します。
3月8日(日)11:00~15:00
有明・東京ビッグサイト西2ホール

サークル名:LYCANTHROPE
スペース№: ふ 10b

イチオシはもちろん中編「小鳥の舌」53P オフセット
あとは、無料配布のペーパーで、ショートショートと本の紹介(アンドレ・ジッドとか紹介しちゃおうと思ってます。個人的にスティーヴン・キングの「スニーカー」とかも好きなんだけどね……キャラが耽美じゃないけど。)

ちなみに先月、忙しすぎてイベントパンフの新刊情報に応募するのを忘れた。
それでも懲りずに新刊つくる気です。
コピー誌で、題は「UMAJIKA」もしくは「恐怖の愚人島」
原稿はあるものの、まだ製本にとりかかれずにいる……。
たぶん30Pくらい。
「小鳥の舌」がけっこう最初からエンジン全開でお楽しみシーンの多い本なので、これはもっと、まったりと暗くて怪奇色の濃いものにしようと思った。
目玉はやはり、美しい御曹子を絶望のどん底に突き落とす超キモい鬼畜……

というわけでお嬢さま方、よろしくお願いします!

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2009年2月13日 (金)

ブラックジュース

51f5utilbwl_sl500_aa240_1  題名に「夜の」「闇の」もしくは日本語で「黒の」と入っているのはゴキゲンな楽しい本、しかしカタカナで「カラー」だの「ブラック」だのいう語が入っていると、人種問題を扱った本かと思って一瞬身構えてしまう(べつにフィクションで社会問題を扱ってもいいし、私はアリス・ウォーカーは好きで尊敬している。でも著者が作家として優れているからではなく活動家として立派だから出版されたような、ワリス・ディリーはつまらなかった)と思ったらこの本の場合はまったく関係なくて、オーストラリア人の書いた短編集だった。

世界幻想文学大賞の受賞作は、自分的にはたまに「なんじゃこりゃあ」というのもあるが、「沈んでいく姉さんを送る歌」は私もおもしろいと思った。どの話も架空の世界を舞台にしているようだ。でも登場人物たちは庶民的で、妙に生活感がある。ホラーではないが、死や葬儀を扱うのはお好きらしい。色気はない。

唯一「わが旦那様」に登場する若奥様がゴシックな美女だ。それでもなんとなく、ビルの狭間から出てきて朝帰りする迷える少女を思わせるような、乾いた現代っぽさが不思議である。どうしてこうなっちゃうんだろうか。たしかに完璧に昔の人の感性で書くことはできないし、書いたところで読み手が距離を感じてしまうから、これはこれでいいんだけれども(むしろこの著者の書く、老若問わずアウトロー的なさりげなくしたたかな女たちは素敵なんだけど)本物のヴィクトリア時代の作家の手にかかったらきっと旦那もろとも八つ裂きになってるんだろう、奥様。

「融通のきかない花嫁」は、個人的に興味深い話だった。この異世界では、結婚式が形骸化して女性だけの祭典のようになっている。女の子がいっせいに花嫁衣裳を着て教会へ行って、司教に祝福を受け、写真撮影して解散となる。それだけでも満足できてしまうという、ある意味女心の本質を突いている。主人公の母の言葉によると、この儀式は封建時代のなごりで、四度の革命をへて市民が自由を得た結果、花嫁崇拝のような、漠然とした概念だけが残ったという。新郎抜きで成立してしまうのも笑えるが、伝統の滑稽さや、それでもなんでもハクのつくことがしたいという人の心の脆さとでもいうのだろうか。私も、今ではない時代、ここではない場所の美に憧れるが、ドレスでもインテリアでも、クラシカルだとかエレガントとか、とにかく気品や豪華さなぞというのは、古い時代のいいトコ取りに過ぎないのは知っている。だからこそ、どうせなら当時の悲惨も残酷さもひっくるめた魅力に酔っちゃうか、少なくとも都合よくキレーなとこだけ抽出した事実を承知して、あくまでも現代のアレンジとして楽しむか、だと思うのである。しかし

「なんといっても、そのお手本になった王様や女王様はとうの昔に死んでるいる。あの人たちはいまのわたしたちの暮らしにはほとんど関係ない。あの革命はいったい何のためのものだったのか?」

という主人公の母のセリフのようなことは、やはり自問せざるをえないところなのだが……(しかしそもそも、この物語の少女が職人の娘でありながら花嫁学校へ通ったりドレスを着たりしているのは、たぶん革命のおかげなんだろう)。ところで、ドレスをきれいに着る術として「毛穴を閉じて皮膚表面の温度を低く保ち、汗をかかないようにする法」というのがでてくるのだが、爬虫類じゃあるまいし、そんなことが可能なんだろうか。

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2009年2月 2日 (月)

戦前生まれのゴシック作家……

21p8vnzneql_sl500_aa140_1「闇の博物誌」山口椿著 青弓社

古今東西のあれこれの残虐事件を紹介した本。水死体や生首などの写真は、モノクロなのでそれほどグロテスクではないが、けっこう凄い。処刑や拷問の古い版画図はなかなか味があってよい(「あたくしとしたことが、どうして読んだことなかったのかしら」と思うのだが、92年発行だから、たぶんスティーヴン・キングを読んだりX‐ファイルを観たりするのに忙しかったのだろう)

著者のあとがきで「史実の検証を目的としたものではない」と言っているとおり、どこまでが事実でどこまでが著者の推測なのかよくわからなくなったりするが、それぞれの章が短くまとめられていて、読みやすく、ドライな語り口も好感が持てる。暇つぶしにサラッと読むのに向く。

(「ヒマだからってなんでそんなもの読まなきゃならんのだ」と不思議がる人のために説明すると、こういうものを読むと世界観が広がって、目に見えている今この時代がすべてではないこと、異なる時代に異なる価値観があったことがわかるのであります。それは現代人の想像を絶する世界かもしれないし、今もどこかに存在する状況かもしれない)

 ところどころ出てくる身の上話によると、どうやら著者の山口椿という人は戦前の生まれらしい(軍にいたというから男性のようだが、昔のパンクにとって中性的で耽美な名前といえば「椿」だったのだろうか?)古い世代のパンク精神というのもなんだか筋金が入っている。「日本がこんなにこぎれいになったのはつい最近のことで、昔は死体なんぞはそこら中にいくらでも転がっていた」とおっしゃる。そこら中にあるのならば、屍に興味を持つ者がいて当然である。それでいて、死を抽象的な、哲学的・精神的側面からのみ語るのは良くて、具象としての死に興味を持つことがなんとなく不健全のように思われるのはなぜだろう。

これについて、私は常にあることを思い出す。私の祖母は食料でも何に関しても、非常に浪費的な使い方をする人であった。私も中学生くらいになると大人を批判するようになって「食べ物の乏しかった時代を知ってるんでしょ。そんなことして、もったいないと思わないわけ」などと言うと、この祖母が実にあっけらかんとして「ぜんぜん思わないね。だってその時はその時、今は今だもの」と答えるのだった。苦難を忘れるのはおそろしいほど簡単らしい。そして見たくないものにはあっさり蓋をしてしまうものらしい。人間の暗黒面にあえて焦点を当てるのは悪趣味かもしれないが、「ごめん、でもどうしても無視できないし」とでもいうような一種の純粋な気持ち、それが私は好きだ。

ちなみに私は以前バルザックの小説で、落城した城の一家が敵側との取り引きで、絞首刑から斬首刑に変えてもらうシーンを読んで何故だろうと思ったが、本書によるとやはり絞首刑と斬首刑ではたいへんな違いがあるらしい。首吊りはもともと重罪犯のための極刑で、汚れるし断末魔も長く、見せしめとして死後も放りっぱなしで鳥の餌にすることが多かったため、火刑の方がまだマシとされていたという(私は魔女裁判のイメージからなんとなく火あぶりが最悪の刑と思っていたのだが、こうなると火刑はせめてもの温情だったのか、という感も出てくる。火刑は準備の手間隙もけっこうかかるというが、言われてみれば確かに、キャンプファイヤーでソーセージをあぶるのとはわけが違う)。それにたいして斬首刑は貴族用とされ、遺体はきれいで、もしかして普通に墓に入ることもできたのかもしれない。

 ところで、斬首も本当に一瞬で済めばいいが、ガストン・ルルーの短編「ビロードの首飾りの女」に気になる言葉がある。女性がギロチンにかけられて重傷を負うものの、一命を取り留めるのだ。その理由は、ギロチン台がメンテナンス不足で刃の位置がずれていたのと、穴に首を深く差し込みすぎて肩の付け根に刃を受けたため、ということになっている。「こうしたアクシデントは初めてのことではなく、5回もやり直された死刑囚がいた」と書かれている(本当かどうかわからないが、著者は本場フランスの、元ジャーナリストだから、なんとなく説得力がある)。手動で首を落とすにもそれなりの技術が要るので、もし処刑人が下手だったら同様の災難が起こるわけだ。

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