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2009年6月

2009年6月27日 (土)

マイケル・ジャクソン、西洋のお殿様、天才、怪人

001 ←これはうちのお殿様

ちょっと上の世代だとか、ファンの人は、こんなもんがマイケル・ジャクソンの思い出だと言ったら気の毒がるかもしれない。もちろん輝かしい業績は知っている、というか知らずにいる方が難しい。ただ私にとってはあの怪人みたいなのがマイケルなんだし、お小遣いで大人の雑誌を買ってよくわからないながらもいっしょうけんめい読んだ「いつまでも子供のままでいたがる心……黒人、白人、男、女、そういったことを超越し、あるいはそのすべてでありたいという願望……」というようなことが書かれた記事も憶えている。私は思う、「これがあたしの時代なの、それでいいんじゃない?」

(しかしその記事というのが、残念ながら今となっては、記者の名も、誌名すらもわからない……)90年代のこと、分厚い映画雑誌を買うと、たまたまマイケル・ジャクソン児童虐待疑惑を受けて書かれた長い記事がのっていたのだ。その中で、訴えた子ではないが、マイケルと親しくしていた10代前半の少年の証言が紹介されていた。その内容はたしか「マイケルが僕の前に跪いて『キスして』と懇願した。僕が断るとマイケルは泣いた」というようなものだった。見方によっていろんな解釈ができてしまう話だった(後になって、私は自分が読んだその少年の証言を、2人の友達に話した。1人は「やっぱりマイケルはあやしい」と言い、もう1人は「そんな繊細な人が虐待や暴行をしたとは思えない」と言った)。これは悪意ある記事ではなく、写真もほとんどなかった。哀愁漂う謎めいたセレブ、というような、意味深でちょっと文学的な書き方がしてあって印象的だった。

ちょうどその騒動のあった頃のこと、私が電車の中に立っていると、すぐ前のシートに5、6人の中学生くらいの男子がずらりと腰かけて喋っていた。その会話というのが、

「マイケルが『100万あげるからやらして』って言ったらどうする? やっちゃう?」

「うーん」

「なんかさ、100万って言われてもピンとこないんだよね。何に使うの?」

「車買うとか」

「免許ないじゃん」

「全部100円玉に換えて、バケツに山盛りにしてゲーセン行くとか」

「いいね」

「親にバレたらどうする?」

「(裏声で)『あんたマイケルにやらせたでしょ。もうウチの子じゃありません!』」

「なんでウチの子じゃなくなっちゃうの?」

「でもさ、100万もらったら親だって黙っちゃうよね」

 あの記事で証言していたような、実際マイケルと親しかった少年たちの心情とは、どういうものなんだろう。そこらのどうでもいい変態オヤジならいざ知らず、あのマイケル・ジャクソンを足元に跪かせて、泣かせてしまうのである。まるでオペラ座の怪人を跪かせたクリスティーヌみたいに! 少年本人が支配の感覚のようなものをどれだけ持っているかはわからないが、もし自覚してしまったら、そのスリルや優越感といったらすごいものがあるだろう。政治家を手玉にとって悦に入っている銀座のホステスなんかとはレベルが違う。それを、何の手練手管もない(いやたぶんないからこそ)、若干12歳やそこらの少年がやってのけるのである。事の真偽はともかく、ああいった報道のために、どうかすると自分たちもそういう逆説的な力を持ちうる、という世の奇怪さや危うさを、あの電車の中学生たちも意識していたわけだ。つくづく奇妙な世の中である。

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2009年6月17日 (水)

スタートレック

329887_0041  スタートレックの映画観てきました。

アメリカのファンはずいぶん熱くて、スタートレックやおい(!)なんかもあるらしい。そのカップリングは、たとえばカーク船長とスポックだというのだが、私がTVシリーズをちらっと観た限りでは、2人ともいい年のオジサンだったはず。なんでまたあの2人が!?と不思議で、ずっと気になっていたが、この映画を観て謎がとけた。

誰しも最初からオジサンだったわけではなく、あの2人にもこんなカワイイ時代があったのね~というお話でした。

2人は訓練中の士官候補生で、破天荒でプレイボーイ系のカークと、クールな優等生タイプのスポックが出会って、あ、そういうことー。そんな個性のまったく違う2人が初めて宇宙船に乗り込んで、当然ハプニング満載で異星人が襲ってきたりするのね。うんうん。そして2人は反発しながらも惹かれあい、衝突しつつも事件を通じて仲良くなって、最後は一致団結して活躍しちゃったりなんかするわけね。なるほど、あー、確かに魅力的なカップリングかもしれない。

というわけで、「あの2人はアリでした」という、ただそれだけを確認しに行ったようなものだった。

(ところで、ファンならば「カークとスポックがずっとエンタープライズ号のクルーとして、中年になってもおじいさんになっても、末永く硬い絆で結ばれる」という結末を知っているわけだ。これだけ先がわかってしまっている中でやおいを作るというのは、どういうものなんだろう。これでは、五里霧中の不安定で未来のわからない中でキラキラと火花を散らす刹那の快楽……みたいな表現はしずらい)。

 他には、あんがいクリーチャーも少ないし印象薄くて、「あの2人以外にカップリングをつくるとしたら、ロシア語訛りの操縦士17歳と、うーん相手は、やっぱカーク?」などと考えているうちに終わった。TVシリーズはもっと味があって、哲学的だったりしておもしろかったはずなんだけどな……。

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2009年6月13日 (土)

きびだんご

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レトロな包装が気になっていた「きびだんご」60円。よく行く駅の売店にいつもある。

 幼少のころ桃太郎に感動したことはなく、しかもどの本を見ても挿絵の少年がなんだか気色悪かった。しかしきびだんご、現実には食べた記憶もないそのきびだんごというものに対する憧れ、それは心に深く刻み込まれて離れない……

Sn3f00160001 中身。形状はだんごというよりバーです。ようかんと水あめの中間みたいな、もしくはドライフルーツのような、ねっとりとした食感。昔あった「ぼんたん」とかいうお菓子に似ている。駄菓子みたいなもので、ひたすら甘いだけでおいしくはない。歯にくっつくので、おじいさんおばあさんに分けてあげるときは要注意(そういえば、いったいどんな年齢層をターゲットにしているんだろう、このお菓子)

 成分表示を読んだ。嗚呼、きび(イネ科の植物。五穀米や雑穀パン等に使われる)・・・きび入ってない・・・・

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2009年6月 7日 (日)

ハイパーグラフィアの謎

413p2qt5y6l_sl500_aa240_1  ハイパーグラフィアとは、脳のちょっとした不具合から、文章を書きたいという抑えがたい衝動が起こること、らしい。

この本は、私にとって重要な、いくつかのことに気付かせてくれた。

「書きたがる脳」アリス・W・フラハティ著 ランダムハウス講談社

小説を書くことについて、「ある程度やってみて、それでもプロになれなかったらきっぱり諦めて仕事に専念する」という人がいる。具体的に「4年間新人賞に応募し続けたがダメだったからやめた」とか、「学生時代に書いていたが、今は忙しいから書いていない」とか言う人もある。

彼らは書くことと書かないことを自らの意思で自由にコントロールできるらしい。ひとたび優先順位が変われば、ほとんど何の苦もなく、まるでニコチン中毒でない人がタバコをやめるように、創作をやめられるわけだ。

私もその人たちと同じになれると思い込んでいて、「今書いているものを最後にやめる」「今月は一枚も書いていない」と宣言したこともしばしばである。さあこれでやめられたと思うと、せいせいした気持ちになる。ところがそのたびに「やっぱりやめられなかった」となると、未練がましい人と思われてもしかたない。

最近気付いたのは、自分がなぜ書きたがるかということは、ヒマのあるなし、金銭的報酬の有無、などとはあまり関係ないということなのだ。「金のために書く」「認められて出世したいから書く」、ひいては「一銭の得にもならないからやめる」「人に評価されないからやめる」と合理的な判断に基づいて書いたりやめたりできる人は、どうも脳の仕様が根本的に違うように見える。

昔ある人が言った。「ものを書く人は現実に不満なのだ」と。過去を振り返ると、これも当たらない。書きたい衝動は、幸福のさなかにも突然サイクロンのごとく発生する。金欠の時も余裕がある時も、時間がある時もない時も、恋している時もフリーの時も、無関係に起こる。もし私が億万長者になったら書くのをやめるだろうか。単にテーマや内容が変わって「世界各国ジゴロ比較」とか「女ひとり豪華客船の旅」とか、今よりもっとイヤミなものを書き始めるだけではなかろうか。

たしかにどん底の時期は、書くことはいい気晴らしになる。しかし何かがうまくいっているときや、他に専念しなければならないことがあるときは最悪だ。

著者のフラハティは言っている。「わたしは仕事しているべき時に書き、眠っているべき時に書き、友達と会っているべき時に書いた」と。それでもこの人は才知と幸運に恵まれておおむねうまくやっているようだ。

私は多くのものが犠牲になったと感じている。でも、ハイパーグラフィアという症状があると知ったことは、悔恨と自責の念からある程度救ってくれた。

もう一つ、この本のおかげである幻想から解放された。つまり、自分にハイパーグラフィアの傾向があるからといって、それが才能だなどという幻想を持つのはやめた。ハイパーグラフィアと才能はイコールではない。

もちろんハイパーグラフィアで同時に大作家、という場合もあるらしい。しかし、たとえば名もない狂人が独房の中で一本の鉛筆を握りしめ、トイレットペーパーや壁にびっしりと意味不明の言葉を書き付けている。誰かがそれを読んでも何のことかさっぱりわからない。それもまたハイパーグラフィアなのだ。

自分がもし何かあって独房に収容され、原稿用紙を与えられずにいたら、この狂人と同じ行動をとるかもしれず、そんな私の姿を見て人がどう思うかは想像に難くない。

ところが外の世界にいて、紙やパソコンを自由に使える限り、それほどおかしく見えない。趣味だとか作品応募とか、研究だとかの大義名分があればなおさら、何か知的でまともなことでもしているかのように装える。

中学と高校の頃、私は自分の小説を人に見せることは考えていなかった。いわば何の目的もなく、机の横でハードロックやテクノをガンガン鳴らしながら、憑かれたように何時間もノリにノって書いた。当時の大量の原稿の一部が今でも保存してあるが、まとまった作品になっているものはひとつもない。悪魔が血の風呂にアヒルを浮かべて歌っているというような、好きな場面や気に入った会話だけが繰り返し書かれ、断片的で脈絡がなく、意味は自分にしかわからない。人に読まれることを考えず、純粋に書く喜びだけを追求するとこうなる。

そういうわけだから、たぶん「誰かに見せる」という意識を持つかどうかが、ひとつの転換点なのだ。たしかに私は今でも愚にもつかないことを書いている。でも少なくとも、収拾したり整理したりして、他人が読んでも意味がわかるようにすることはできる。

        *

…………

最近、またやってしまった。やるべきことをしないで、机に向かって同じ事を何度も何度も繰り返し書いていた。自分で自分にぞっとする。なぜこれを抑えられないのか。

著者自身の経験によると、ハイパーグラフィアは躁うつ病と関係があり、抗うつ薬で症状が抑えられたと言っている。

私はまだ楽観している。自分はそんなに重症ではないと思っている。年齢や生活の変化などで、脳も変わるのではないかと期待している。折り合いをつけてなんとかやっていけるのではないか、あるいは、いつか完全に書くことをやめるかもしれないと思っている。でも一方では、ある日とつぜん最大級のハイパーグラフィアに陥って、有益なことが中断され、立て直しかけた人生が再び破壊されてしまう可能性に怯えている。

 書くというのは麻薬のようなものだ。私はこういうことは普段は秘密にしている。ひとつには「ハイパーグラフィア」という言葉自体、長い間知らなかったからだ。もうひとつは、なんのことはない、それを言ったらハクがつかないからだ。人には「あたしは忙しい合間を縫って、苦労しながらほんの少しだけ書くんです」と言い、相手は「はあ、創作ですか、それはさぞかし骨の折れることでしょう」と言ってくれるべきなんである。ただ、書くことについて同じような疑問を持つ人にはこの本が参考になるかもしれない。

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2009年6月 1日 (月)

思い出の栗本本

019  お花写真でも奉納して、

今週は訃報にびっくりだった。さてさて、この機会にさっそく栗本薫のBL本について書きましょう、と言いたいところだが、実は「これが傑作だ」というふうに紹介できるほど詳しくない。私は山藍紫姫子は好きだったが、栗本JUNEは個人的にとっつきにくく、勝手に「懺悔モノ」と名付けたりした。

 きっちり読んだのは中島梓の方の、「コミュニケーション不全症候群」と「タナトスの子供たち」だった。「コミュニケーション~」で紹介されているJUNE本は古典名作的な馴染みのないものが多く、そういう意味では「タナトスの子供たち」の方が親しみやすい評論だった。ただ「コミュニケーション~」は私が見つけた初めての、やおい&JUNEについて真剣に考察された本だったから、ずいぶん新鮮に思えたし、なかなか鋭い洞察だと思った。ある時などは、自分で自分のことをしきりに「オタク、オタク」と言っている男友達にその本を貸した。

彼は後に、たいそう腹を立てた様子で本を突っ返してきた。何が気に入らないのかと不思議に思って話をきいているうち、あることがわかった。彼はオタクが時代の最先端にいて流行を予言する存在であるとか、オタク的知識をもちいて趣味のみならずビジネスでも大成功した者がいる、というような、明るく夢のあるオタク像を信奉していた。だから、中島梓が本の中で、落伍者の現実逃避のような、男オタクの負の側面ばかりを強調しているのが不愉快だったらしいのである。

(ただ、これは男オタクを非難するために書かれた本ではない。私としては、JUNEを読んだり作ったりする変な女たちの心理や社会的背景を考察してみましょう、という本であると思っていたし、男オタクについて言及した箇所はほんの一部だったように記憶している)

 その「コミュニケーション~」の中の、短い文章ではあったが、こんな箇所が印象的だった。

 医療技術の発達により、昔ならば乳幼児期に死んでいたような男子が生き延びるようになった。しかし彼らは、本来淘汰されていたはずの弱い個体である。現代のテクノロジーと豊かさのおかげで一応健康になり、成人して社会へと出て行くが、実は自分の生命を維持するだけで精一杯で、次世代を生み育てるだけの余力はない。それがすなわち生身の女性を愛さないという精神の根底にあるものではないか、という。

(だからかどうか知らないが、私がとあるオタクの掲示板で、結婚の害悪について語り合ったものを見たところ、誰一人子供の誕生を想定していないのが奇妙であった。言うまでもなく、その点を抜きにして結婚制度を批判することはできないはずである)

中島梓は生物学者ではないので、具体的に統計をとったりはしていない。たとえ統計をとったとしても、物事の理由とは複合的なものだから、乳幼児期に病弱だった事と、現実よりも架空の少女を好むか、将来所帯を持つかどうか、等は必ずしも即座に関連するものではないと思う。が、ちょっと興味深い指摘である。

 というのは他ならぬ私自身が、現代の医療技術がなければ誕生することなく、今ここに存在しなかったはずの個体なのである。私は人工的処置が普及したことによる余剰の生命体、いわば人生そのものが余剰の時間ともいえる。それなら今命があることに感謝して、何か世のため人のためになるようなことでも考えればいいのに、そういうエネルギッシュな心がけもなく昼寝なんぞしているのであった。

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