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2009年6月 7日 (日)

ハイパーグラフィアの謎

413p2qt5y6l_sl500_aa240_1  ハイパーグラフィアとは、脳のちょっとした不具合から、文章を書きたいという抑えがたい衝動が起こること、らしい。

この本は、私にとって重要な、いくつかのことに気付かせてくれた。

「書きたがる脳」アリス・W・フラハティ著 ランダムハウス講談社

小説を書くことについて、「ある程度やってみて、それでもプロになれなかったらきっぱり諦めて仕事に専念する」という人がいる。具体的に「4年間新人賞に応募し続けたがダメだったからやめた」とか、「学生時代に書いていたが、今は忙しいから書いていない」とか言う人もある。

彼らは書くことと書かないことを自らの意思で自由にコントロールできるらしい。ひとたび優先順位が変われば、ほとんど何の苦もなく、まるでニコチン中毒でない人がタバコをやめるように、創作をやめられるわけだ。

私もその人たちと同じになれると思い込んでいて、「今書いているものを最後にやめる」「今月は一枚も書いていない」と宣言したこともしばしばである。さあこれでやめられたと思うと、せいせいした気持ちになる。ところがそのたびに「やっぱりやめられなかった」となると、未練がましい人と思われてもしかたない。

最近気付いたのは、自分がなぜ書きたがるかということは、ヒマのあるなし、金銭的報酬の有無、などとはあまり関係ないということなのだ。「金のために書く」「認められて出世したいから書く」、ひいては「一銭の得にもならないからやめる」「人に評価されないからやめる」と合理的な判断に基づいて書いたりやめたりできる人は、どうも脳の仕様が根本的に違うように見える。

昔ある人が言った。「ものを書く人は現実に不満なのだ」と。過去を振り返ると、これも当たらない。書きたい衝動は、幸福のさなかにも突然サイクロンのごとく発生する。金欠の時も余裕がある時も、時間がある時もない時も、恋している時もフリーの時も、無関係に起こる。もし私が億万長者になったら書くのをやめるだろうか。単にテーマや内容が変わって「世界各国ジゴロ比較」とか「女ひとり豪華客船の旅」とか、今よりもっとイヤミなものを書き始めるだけではなかろうか。

たしかにどん底の時期は、書くことはいい気晴らしになる。しかし何かがうまくいっているときや、他に専念しなければならないことがあるときは最悪だ。

著者のフラハティは言っている。「わたしは仕事しているべき時に書き、眠っているべき時に書き、友達と会っているべき時に書いた」と。それでもこの人は才知と幸運に恵まれておおむねうまくやっているようだ。

私は多くのものが犠牲になったと感じている。でも、ハイパーグラフィアという症状があると知ったことは、悔恨と自責の念からある程度救ってくれた。

もう一つ、この本のおかげである幻想から解放された。つまり、自分にハイパーグラフィアの傾向があるからといって、それが才能だなどという幻想を持つのはやめた。ハイパーグラフィアと才能はイコールではない。

もちろんハイパーグラフィアで同時に大作家、という場合もあるらしい。しかし、たとえば名もない狂人が独房の中で一本の鉛筆を握りしめ、トイレットペーパーや壁にびっしりと意味不明の言葉を書き付けている。誰かがそれを読んでも何のことかさっぱりわからない。それもまたハイパーグラフィアなのだ。

自分がもし何かあって独房に収容され、原稿用紙を与えられずにいたら、この狂人と同じ行動をとるかもしれず、そんな私の姿を見て人がどう思うかは想像に難くない。

ところが外の世界にいて、紙やパソコンを自由に使える限り、それほどおかしく見えない。趣味だとか作品応募とか、研究だとかの大義名分があればなおさら、何か知的でまともなことでもしているかのように装える。

中学と高校の頃、私は自分の小説を人に見せることは考えていなかった。いわば何の目的もなく、机の横でハードロックやテクノをガンガン鳴らしながら、憑かれたように何時間もノリにノって書いた。当時の大量の原稿の一部が今でも保存してあるが、まとまった作品になっているものはひとつもない。悪魔が血の風呂にアヒルを浮かべて歌っているというような、好きな場面や気に入った会話だけが繰り返し書かれ、断片的で脈絡がなく、意味は自分にしかわからない。人に読まれることを考えず、純粋に書く喜びだけを追求するとこうなる。

そういうわけだから、たぶん「誰かに見せる」という意識を持つかどうかが、ひとつの転換点なのだ。たしかに私は今でも愚にもつかないことを書いている。でも少なくとも、収拾したり整理したりして、他人が読んでも意味がわかるようにすることはできる。

        *

…………

最近、またやってしまった。やるべきことをしないで、机に向かって同じ事を何度も何度も繰り返し書いていた。自分で自分にぞっとする。なぜこれを抑えられないのか。

著者自身の経験によると、ハイパーグラフィアは躁うつ病と関係があり、抗うつ薬で症状が抑えられたと言っている。

私はまだ楽観している。自分はそんなに重症ではないと思っている。年齢や生活の変化などで、脳も変わるのではないかと期待している。折り合いをつけてなんとかやっていけるのではないか、あるいは、いつか完全に書くことをやめるかもしれないと思っている。でも一方では、ある日とつぜん最大級のハイパーグラフィアに陥って、有益なことが中断され、立て直しかけた人生が再び破壊されてしまう可能性に怯えている。

 書くというのは麻薬のようなものだ。私はこういうことは普段は秘密にしている。ひとつには「ハイパーグラフィア」という言葉自体、長い間知らなかったからだ。もうひとつは、なんのことはない、それを言ったらハクがつかないからだ。人には「あたしは忙しい合間を縫って、苦労しながらほんの少しだけ書くんです」と言い、相手は「はあ、創作ですか、それはさぞかし骨の折れることでしょう」と言ってくれるべきなんである。ただ、書くことについて同じような疑問を持つ人にはこの本が参考になるかもしれない。

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