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2010年3月

2010年3月25日 (木)

「ヘヴン」裏感想

 川上未映子の「ヘヴン」という小説は、たしかに技巧的にはたいへん上手に書かれている。しかし私は根底に流れる思想に納得いかないので、そんなに上等な小説とも思えない。

人にそう言うとなぜか驚かれ、それを文章にして、ブログ上でもなんでもいいから発表せよと言われる。どうやら個人的繋がりのよしみで訪問してくれるが、内心飽き飽きなので、たまには悪口を書いて知らない人からお叱りのコメントでもくれば面白かろうということらしい。

しかしこれは私にとって、独断と偏見ではあれ「おもしろいもの、好きなもの」を紹介する場で、「嫌いなもんをわざわざ紹介する場」ではない。批判めいたことは書いてもそれは「かわいさあまって憎さ百倍」みたいなもんで、ここに題名を出すからには決して完全に敬遠しているのではない。そこへいくと「ヘヴン」は、題名をキーボードで打つことすら面倒な類のものなのだから困った。

まず、メイン登場人物のコジマという女の子(といってもこいつは乙女ではないので「あの女」とでも言ったほうがぴったりくる)がどうしようもなくいやらしい。

たとえば、主人公の少年に自分の心情をとうとうと語ったあとで、「クラスの女の子たちにこういうことを言っても、わかるはずがない」とつけ加える。とにかく上から目線で、必死に伝えようとした結果「わかってもらえなかった」のでは決してない。そのくせ気に入った男には「あなたにだけ打ち明けるけど」みたいなポーズで近付いていく。なかなかの女である。

ところでこの女の理屈では、「この世には(学校には)いじめる人間と、いじめられる人間がいる。私はあえてしいたげられる側になるのだ」とかいう。

私だったら、こういうセリフは娼婦に言わせる。女子学生には言わせない。娼婦の偽善的美学にならふさわしい。

 確かに世の中には、やるヤツとやられるヤツがいるのである。しかし目標としてはあくまでも、「攻撃する側もされる側もない、平等な教室(世界)」を目指してもいいわけだが、それをしない。

もちろん目標を掲げたところで、物事は容易ではない。ただ、脱出する、告発する、転校する、なども言い換えれば理想的世界を目指した地道な行動といえる。しかしこの女、「世の中はしょせん不公平なもの」と地道な改革をなげた上で、「じゃあ私はやられる側になる」と、被害者であることを強引に美化する。

 それで彼女は嫌われても虐められても、なにがなんでも学校に来る。抵抗しないし、逃げもしない。これは暴力や虐待という「悪」に加担していることと同じだから、私にはとくに立派とも思えない。彼女は「やるヤツとやられるヤツが存在している不公平な世界」に加担し、その世界を形成する駒の一つであることを選んでいる。

搾取とか虐待されることを世の前提として、決して歯向かうことも逃げることもなく、「私は踏みつけられる側でいい」と共犯になる人間がいたら、支配する側にとってはこんなに都合のいいことはない。この小説の中では、一見はみ出しているように見えて真の革命魂は持たない者を、制度の枠の中で耐えてさえいれば最後には超越できるのだと持ち上げる。

私はこういう農奴的ファンタジーは好きではないし納得もできない。最後まで読めばわかるとおり、どこまでいっても強姦や殺害まではされないという、どうしようもない甘さとメデタさがある。もしも私が主犯の少年であって、クライマックスのようにこの女に本気でビビらされたら、逃げるよりむしろ殴り殺すかもしれない。どんな形の搾取や暴力であれ、やられっぱなしになっていれば行き着くところは破滅と死だ。そのへんの真理をきちんとするのがホラーなのだが、こういう純文学とやらは格好だけ死をこねくり回して、緊迫感がない。覚悟やイカれっぷりを見せることで加害者を撃退できるなどと、こんなファンタジーが流風することこそ危険だ。

ちょっとおもしろいところもある。ビジュアルにこだわるコジマは、少年の斜視が手術で治るときいたとたん泣いて怒り、彼を同盟から排除する。彼に、都合のいいペットでいてほしかった――そして自分のペットはキズモノでなくてはならない――このセンスはわからなくもない。ただ彼女は、面と向かって非難することで愛好者マナーに抵触してしまう。

たとえば、「ありふれた飼い犬じゃ、あたしの主義と美学とプライドが満足しない。あたしは片目で三本足のフリーク犬を愛することでアイデンティティを表現する」といって、どうにかして理想の犬を探し出すまではやっていい。しかし健康な犬の足をわざわざノコギリで切ったり、治せるのに治療しなかったりするのは、一線を越える。そこから先は地獄への道と心得てかからなければならない。

私には、ここらで彼女が一線を越え始めて、独善と逆差別に一歩踏み込んだように見えたのだが、その後の展開では、この件で(他の件でも)とにかく彼女をイノセントなものとして受け取るよう強いられる。この小説はあくまでも主人公の少年とコジマの視点なので、彼女が偉大で、根性が汚いのは周囲の人間であるということになっている。もちろん、周りに罪がないのではないし、そういう視点も悪くはない。ただ他の人が言うように「リアルだ」とは私は思えないし、充分偏った話でもある。魅力的なら偏っていてもいいのだが、この著者のキャラは魅力がない。

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2010年3月14日 (日)

居候の極意はパンダに学べ

003 こんなの見つけた。

ツルゲーネフ著「ルージン」金子幸彦訳(央公論社「世界の文学11」より)

 主人公ルージンは長身で男前、しかも口が達者で、ひどく高尚で哲学的に聞こえることをスラスラと喋りまくる。誰もが彼の知性と思想を高く評価し、ときには「天才」とまで言われる。

 そんなルージンが、ある貴族の屋敷にやってくる。最初は、友人の代理として論文を届けに来たのだが、女主人に気に入られ、いつの間にか居座ってしまう。どうやらこの男、タダ飯を食って、あちこちで居候しながら根無し草のように生活しているらしい。30過ぎにもなって、とくに非難される様子もないのは話術のおかげもあるが、どうやら昔のロシア貴族の家では居候がめずらしくないようだ。

この屋敷は地主の母娘の女所帯で、もう一人、パンダレフスキイという居候男がいる。よって一時は、古参のパンダレフスキイと新参のルージン、それぞれ個性的な二人の居候男が同居するという豪勢な状況となる。二人はとくにいがみあうわけでもないが、最後は居候のスペシャリストともいうべきパンダレフスキイが一枚上手のところを見せて、ルージン駆逐のきっかけをつくる。

ルージンはある種の男の典型といっていいようなわかりやすい性質を持っているが、パンダレフスキイはちょっと不思議な、宇宙人的キャラクターだ。あまりに長年いるので、女主人と寝ているのかと勘ぐりたくなるが、そういう記述はない。話相手をして、あとはピアノを弾いている程度なのだ。あとはただひたすら自分の役割と立場をしっかり把握して振る舞い、晩年はそれなりに安泰な収入源ももらったようだ(ビジネス書や生活指南書には、つきつめるとすなわちパンダレフスキイの生き様に行き着くものが少なくない気がする。彼は利口で辛抱強く、見事なシンプルライフを実践している。しかしカッコよくはない)

 ところでこの話、昔のロシア小説の例に漏れず、キャラクター名がややこしい。一番憶えやすいのはパンダレフスキイで、これは頭の中で「パンダ」と略すことができ、東洋的とされるルックスや、ペット的な役どころも動物園のパンダのイメージとそう遠くない。しかしこの同じ人物が、場面によっては「コンスタンティン・ジオミードイッチ」と呼ばれたりする。これは名前の上半分で、会話部分では「コンスタンティン」、それ以外では「パンダレフスキイ」になる。こんな調子で、未亡人のアレクサンドラ・パーヴロヴナ・リーピナ、その弟セルゲイ・パーヴロヴィッチ・ヴォルィンツェフ、隣人のミハイロ・ミハイルイッチ・レジネフ(これはミハミハと略す)等々とこみいった名前の人々が続くのである。

 ルージンに似たところのある人物は実際いるもので、私も何人か知っているが、みんなカッコイイといえばまあカッコイイのである。しかしその魅力にもかかわらず、すぐに芯のない花のようなアンバランスな本性が見える。たぶん私自身の中にルージンと似たところがあるから、それが見えるのだ。それで、たとえ好かれてもそそくさと逃げることになるわけだが、一方では、たとえ苦労したとしても添い遂げるという選択肢もあったと知っている。もしもSFでいうパラレルワールドのような世界があったら、そこにもう一人の私が住んでいて、ルージンのような男と暮らしているのかもしれない、と思うのである。

この物語に出てくるナターリヤは、私が一度もしなかった選択、つまりこのしょうもないルージンを愛するという、勇気ある決断をくだしている。この時点でナターリヤは読者の私にとって、別の世界に住むもう一人の私になる。ところがルージンが煮え切らないものだから、ナターリヤもけっきょく彼に愛想を尽かしてしまう。

(ところでその後にルージンがナターリヤに渡した最後の手紙ではまたしても彼の率直さと頭脳明晰ぶりが発揮されていて、「阿呆ならともかく、ここまで自分の欠点を把握していてどうして直せないんだ」という頭のいい人間の可笑しさがある)

そんな調子で女たちからは見放されるし、理想の高さや周囲から浮いてしまう性格が災いして、始めた仕事は次々と挫折。年取った貧乏な放浪者となってゆくルージン。彼は一体どう生きるべきなのか、こんな人間にも居場所はあるのだろうかと、ヒリヒリするようなスリルを味わいながらページをめくる。

途中、唯一の理解者であるレジネフが「なぜロシアにルージンのような男が誕生してしまったのか、その話はひとまず置いておくが……」と言う場面がある。私としては、この話をもっとしてほしかった。「資産家でなくても高い教育を受けられる制度によって誕生した」とでも言うのだろうか?

最後はハッピーエンドではない。ただ、ともかく作中の人物たちによってルージン問題がほぼ議論し尽くされ、「ルージンの生涯」みたいなものが完結しているので、ちょっとした満腹感がある。この本によって、ずっと前から私の心の中に棲んでいたやっかい者にルージンという名が与えられ、ひととおり人生を生きて、お墓に入ってくれたような平穏――ひとつの墓碑が建ったような安息が訪れる……

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