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2010年5月10日 (月)

「ウルフマン」を観た

T0008421p94x941  古城に森に拷問部屋と、ダークですてきな映像満載。だけど、なんだかとっても古風なホラー。唯一現代的なのは、「獣を殺すのは当然、人を殺すのは罪……でも、その境界は?」というキーフレーズだ。

そういえば同じ狼ものでも「ガリシアの獣」は、最近作られたものなのに、真の意味で古風な映画だった。どうしてかというと、「人間性=善」「本能=悪」という昔の思想をそのまんま表現しているのだ。

実際は野獣とはたいへん賢く、食べる分しか殺さない。食べられる以上の獲物を襲って散らかしていくとしたら、それは野性の本能というよりむしろ、本能が壊れた状態といえる。長い飢饉や病気で脳がイカれた個体が出るとそういう荒らされ方をすることもあったらしいが、ただ普通は、とくに狼なんぞはイヌ科だから、結束が強く、社会性が高く、いたって家族思いで子煩悩という。つまり、もし本当に狼男というものがあるとしたら、自然環境と調和し、群れて一家団欒わきあいあいとやっているはずなのである。ところが「ガリシアの獣」のように、どちらかといえば本能が欠落した、もっとも自然から遠のいた状態を逆に「獣の本能」と呼んでいた時代があるようだ。野生動物研究の未発達から、本能が汚名を着せられていたということなのか。

「ウルフマン」のラストでも、主人公がヒロインの懇願で最後に一瞬人間に返るのだが、これも愛によって獣性を克服したというよりはむしろ、「適齢期のメスは殺すものではなく温存するもの」というマトモな野獣本能が戻った、というべきだろう(しかしそれはすなわちヒトの本能で、狼からすれば人間のメスなぞどうなってもいいわけだから、「最後は人間に戻りました」という表現でいいのかもしれない)。

ところで、獣の本能という面からいえば、「ウルフマン」のパパの行動も、いったい生命体として何の利益があるのかわからない。妻は殺すわ、息子は殺すわ、息子の婚約者を自分のものにしようという野望はあったらしいが、これは狼というよりむしろサル山のボス的行動のような気がする。たしかサルには、群れから自分以外すべてのオスを駆逐してハーレムをつくる種類があったはずだ(そういえば、変身後の姿もちょっと類人猿っぽい)。遠吠えの仕方もどうも情報共有を重視するイヌ科としては変で、どちらかというと事後報告、ゴリラのおたけびに近いタイミングでやっているように見える。

しかし「モンキーマン」などといったら、なんだか迫力がなくてホラーにならない。孤独や冷徹さを表現するならイヌ科の狼よりも断然ネコ科、それもハーレム社会で子殺しを行う「ライオンマン」なんて危険でいいと思うのだが、なぜかライオンには悪役のイメージがなく、英雄扱いされる。昔の人のイメージはいい加減なもので、動物の本当の姿がいろいろわかってきている今、より現実に即した新時代の動物妖怪が生まれたらいいのに。

そこへいくと猫というのは人間の生活に密着しているだけに、古来からすべての動物の中でもっとも現実に近い姿で描かれてきたという気がするのである。

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