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2010年6月

2010年6月27日 (日)

魔学入門

114 ※これはあくまでも私個人の解釈である。伝統的悪魔崇拝の方々が同様に考えていたかどうかはわからない。

 映画「アダムス・ファミリー」の冒頭で、寝室で目覚めた夫妻が、いかにも普段どおりに、といった風情で挨拶しあう。

「不幸かい、おまえ?」

「胸が張り裂けそうよ」

 逆説的ではあるが、たいへん自然で奥ゆかしく、正当な挨拶にきこえる。そう感じられるのはなぜなのか?

 まずは以下の文章を参照していただきたい。

 たとえ、自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には辛いことばかりじゃないか。難民問題にしてもそうだし、飢えや、差別や、また自分がこれこそ正しいと思うことを認められない苦しみ、その他、言い出したらキリがない。深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。

 だから、自分は幸福だなんてヤニさがっているのはとても卑しいことなんだ。 

 たとえ、自分自身の家が仕事がうまくいって、家族全員が健康に恵まれて、とてもしあわせだと思っていても、一軒置いた隣の家では血を流すような苦しみを味わっているかもしれない。そういうことにはいっさい目をつぶって問題にしないで、自分のところだけ波風が立たなければそれでいい、そんなエゴイストにならなければ、いわゆる“しあわせ”ではありえない。

       岡本太郎著「自分の中に毒を持て」より

 ここまでわかっていればもう、悪魔学まではあと一歩だ(もっとも岡本太郎はいわば芸術崇拝ともいうべき考えなので、霊や魔の存在には興味がなかったようだが)。

 つまり、個人の幸福とは神に祈るべきことではない。宗教はもともと恵まれたいとか安定したいとか、○○がほしいといった欲望それ自体を否定している。神仏への祈りとは「私が煩悩をのりこえて悟りをひらけますように」というものであって、困難が物理的に消滅することを願うものではない。むしろ会社で大抜擢でもされたかのように、「神様、この試練に感謝いたします、つきましては私が精神的および霊的に成長するのを見守っていただければ幸いでございます」とでも言わなくてはいけないような、謙虚さを強いるものだ。

 それがいやなら、ただひたすらがんばるか、政治運動か社会活動でもするしかない。最低限の幸福が人の権利というならば、それは神仏ではなく政府の責任である。

 昔の西洋人は、神頼みしていいこととできないことの区別をはっきりしていた。だから悪魔崇拝があったのだろう。日本はそのへんが大雑把だから、商売繁盛とか無病息災とか、とりあえずなんでも神に祈願しとけばいいということになっている。

話はそれるが、ある神社で外国人観光客が書いて行ったらしい絵馬を見かけた。そこには、「私の家族と友人たちがいつまでも健康でありますように、彼らの心が平和で、たくさんの愛とたくさんの幸福に恵まれますように……」といった内容が英語で隅から隅までいっぱいに書かれ、終わりには Thank you”と付け加えてあった。日本語なら「家内安全」と四文字で済むのに、ご丁寧なことである。

ただ、それも一見他利的なようで、「自分」の範囲をわずかに広げただけの卑小な考えに過ぎない。一人の人間の家族や友人知人の数など、たかが知れている。そのわずかな人々を自己の延長とみなし、小さなシェルターの中で自己満足しているだけだ。それはペットと似ている。「ウチのコさえ元気なら」とまことに勝手な理屈で、ある個体だけをかわいがってデレデレしている間に、日々たくさんの行き場を失った犬猫が保健所で死んでゆき、家畜たちは窮屈な囲いの中で病気になっているのである。

もし本当に他者の幸福を祈るというなら、見ず知らずの人間だろうが、自分と血がつながっていようがいまいが、すべての人類や動物たちの幸福を願わなければならないはずだ。

 しかし多くの人間は、「すべての生命体が救われますように」などという宇宙規模に等しいことはなかなか考えられない。望みは自然と悪魔的なものになってゆく。

 「あいつに復讐したい」「やつがオレと同じように不幸になるように」と願う(というか呪う)のであれば、力をかりる対象は当然悪魔だろう。同じ理由で、「金持ちになれますように」とか、「あのひとの心を永遠にあたしのものにしてください」「あの仕事が手に入りますように」などもすべて悪魔の管轄である。

「お母さんの癌が治りますように」などというのはどうか。私は、これもやはり悪魔に祈るべきことと考える。さらにエスカレートして「死んだお母さんが生き返りますように」とでもなれば、これがいかに自然の力や神の采配を無視した悪魔的な願いであるかは、古来の伝説からホラー小説にいたるまで脈々と表現されてきたとおりだ。

もちろん、悪魔は必ずしも望みをかなえてくれない。彼らはいたずら好きだから、願い事を逆手にとってもてあそばれるかもしれない(「マクベス」は、悪魔に遊んでもらった幸運な男の物語である)。魂と引き換えに願をかなえるという伝説があるとおり、たとえ願いが聞き届けられても、なんらかの代償を差し出すことになるかもしれない。そこには、運命を擬人化したようなおもしろさがある。

 彼らの気紛れも恐ろしさも覚悟の上で、なお闇夜に生贄の血を流し、魂を売ってでも超自然の力を借りたいと願う情熱――その有様の、なんと人間らしいことだろう。そして幸福や快楽への望みというものが、基本的に背徳的だという了解のもとに成り立つ点、それが悪魔の深さであると思うのです。

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