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2010年10月

2010年10月31日 (日)

「森鴎外と娘たち」展へ行ってきました

13983_1_l1  世田谷文学館です。

「娘たち」というより、森茉莉を見に行った。生前の手書き原稿や、小説の構想に使ったという俳優写真の切り抜きなどがあった。

私にとってBLの先駆者、元祖耽美作家の森茉莉。しかし何で読んだか忘れたが、当人は作品を「男色小説」と言われて怒った、という逸話がある。これには驚いた。どうして気を悪くしたのかも謎だし、それじゃ一体、何のつもりで書いていたのかも謎である。同人誌でもやっていれば「最近なに書いてるの」「エロホモ小説よ」などという会話は至極普通なのだから、その元祖である大先生となればなおさら「はいそうです、私は男が楽しむ恋愛小説ではなく、女性のための男色小説を書くことにしたんです」と、堂々と言っていたに違いない――そう信じて疑わなかった私の気持ちは、いったいどこへ行けばいいのだろう。

そんなすごい昔のように思える時代、展示パネルによると作家友達の浅子でさえ「彼女のエッセイは好きだが、男同士の恋愛短編なんかは、もうまったく理解不能」と語っている。私はそれを見て思わず、心の中で親友の浅子とやらにむかって「バカ者――!!あんたがわかってあげなくてどうすんのよッ」と叫んだのであった。

話はまるきり変わるのだが、

私はずっと以前に、エロティックな趣のある怪奇小説短編集を読んだ。著者についてはほとんど何も知らなかったが、この短編集を読んだとき、著者の人物像についてこう推測した。

「男性、年寄り。やや小柄、太ってはいない。妻はいるが子供はいない。離婚経験なし。性生活ではもともと強い方ではなく、持久力もなかったが、今ではまるきり枯れている」

といっても、この短編集は自伝的なものではまったくない。作品はどれもファンタジーで、登場人物たちの年齢も若い。どうして著者についてそう思ったのか、と言われたら、とにかくそういう印象が頭に浮かんだ、としか言いようがない。「情熱も感性も涸渇した男が、老人特有のねちっこいエロさを頼りに、己のパワー不足を古今東西のありとあらゆる知識をかきあつめることで補い、どうにか格好をつけた作品」と思った。

それで「あーヤダヤダ、まったく未練がましいお爺さんだね」と呟いて本を閉じたが、「いや待てよ、作品だけで決めつけては著者が気の毒」と思い直し(もっとも作家とは作品で勝負するものなのだから、略歴を見て考え直そうというのも変な話なのだが)、一応解説なども読んだ。

これは澁澤龍彦の最晩年の作品集で、すでに具合を悪くしていた著者が、病身に鞭打って書いた、ということであった。私の推測のうち、少なくとも晩年の作品である点は当たっていたし、病気ということだから、性生活が不可能だったのも本当かもしれない。ただし「死にゆく男の最後の悪あがき」というほどの強烈さはなかったから、そういう意味では、博識によって上手に抑制やカモフラージュがされていたのかもしれない。

それはともかく、私は著者に関する自分の直感が多少なりとも的中してしまったことに震え上がった。「こういうのってバレちゃうんだ」と思うと怖くなった。自伝的要素がまったくないのにバレる。耽美なのに、怪奇なのに、ファンタジーなのにバレる。これだけ塗り固めてるのにバレる。せっかく美男美女を登場させてるのにバレる。

もしかして年相応のエッセイでも書けば逆に「瑞々しい感性のおもしろい爺様」という印象だったかもしれないものを、登場人物を若くしてホラーや耽美をやったことで、逆に違和感が際立ってしまったのだろうか? ちょうど60過ぎのオバハンがギャルファッションをして、かえって老けた顔が浮き出てしまうように?

「僕は会社を定年退職したら、南の島に家を買って、恋愛小説を書いて暮らすんだ。ね、君もそうしなよ。一部屋かしてあげるから」などとのたまっている知人の顔が頭に浮かんだ。この人は、仕事ばかりで本もろくに読めない、文章の鍛錬もしない、さらに大酒のみだから、いざ退職してパソコンの前に座ったところで、すっかり痴呆になって一行も浮かんでこないのがオチかもしれない。それでも万が一、ちゃんと書き上がって、書店に並んだとしよう。それを手にとったギャルが、略歴も見ないうちから顔をしかめてつぶやくのだ。「ヤダヤダ、未練がましいお爺さんだね」と。この怖さ、おわかりいただけるだろうか。

しかし考えようによっては、男には男の、女には女のエロスがあるように、シニアにはシニアの、若者とはまた違ったエロスの世界があっていいはずだ。「干上がってて何が悪い?」ときかれたら、「だって小説にはパッションがなくちゃ」という、私個人の、好みの問題でしかないのかもしれない。それにしても。

そんなわけで、私の中に「ある種の小説は若いうちしか書けないのか?」という疑念がうまれた。ホラー、スプラッタ、ハードボイルド、バイオレンスはどうか。とくに官能的な小説であればあるほど、自分の生命力を削って紙の上に焼きつけていくようなところがある。自分自身が現役でなかったら、パワーやエネルギーを読者に分け与えて楽しませることもできないのではないか? 分けてもらうどころか、逆にこっちの体温やお肌の潤いの何パーセントかが冥界の虚空へと吸い取られたような不愉快を味わわされ、「ちょっとォ、お爺さん何すんのよ」と口をとがらせたくなるような、そんなものしか書けなくなったら? 

前述の森茉莉は、若い頃から翻訳したり書いたりはしていたらしいが、作家デビューしたのは晩年になってからで、耽美小説もその後に書かれている。彼女があるインタビューで、「私は女の悦びなどというものは知りません」と爆弾発言をかましているのを見たことがある。「でも、そのおかげで少女の気持ちのままでいられた」とも。私はそれを信じない。いいトシして説得力ある美少年像を描くからには、自身の健康、キャラクターづくりの細かさ、自らの若き日の感覚を自在に引き出せる優れた記憶力など、多くの要素があったはずだ。でも、興味深い人である。

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2010年10月 2日 (土)

恋愛論

Photo これまた家の奥から出てきた古い本。

「恋愛論 上・下」スタンダール著 前川堅市訳 岩波文庫

18世紀の人々の不思議な生活が垣間見えておもしろい。恋愛論というより社会論のようでもある。「女子教育」という章では、教育の場における男女の不平等を指摘している。なかなか先駆的な人なのだが、自分の分野では保守的になるのか、女性が作家になることを否定している箇所もある。「家族を養い育てるために著作をする場合のみ、例外として女性が作家になることを認める……その場合、常に金銭上の利益からのみ自分の作品を語るべき」等と語った後

たとえば騎兵隊長に向かって「あなたはご職業柄1年に4千フランおとりになるそうですが、私は去年英語の翻訳を二つしまして、2人の息子の教育費に3千5百フランよけいに出せました」などというべきである。

というので笑ってしまった。

そんなところはよくわからないが、時代を越えて目から鱗な洞察もけっこうある。たとえば、

 フランスで娼婦がおかしなほどもてはやされるのは、虚栄心が原因だ。

 スタンダールは「祖国を愛するがゆえ」としながらも、フランス人を辛辣に書いている章もある。彼いわく「フランスは恋愛結婚が一番少ない国だ」。そして「パリで恋を見つけるには、教育の欠如と虚栄の欠乏と、真の貧困への闘いとが残されている階級まで降りて行かねばならない」のだそうである。

貧困層のことはわからないが、ブルジョワについて言えば、彼らの自尊心と虚栄心がハンパないのは本当だと思う。近代人の方がむしろ、その伝統を自省抜きで露骨に表す気がする。たとえばパトリス・ジュリアンはエッセイ集の中で、こんな体験談を披露している。彼はある女性を、彼女のSM趣味を知りながら誘った。彼女は一応相手にしてくれたが、あまり燃えなかったらしい。それはおそらくジュリアン氏に縄師の才能がないせいだから、そのまま「僕では不足だったらしい」と言えばいいのに、彼は「極端な行為でしか興奮できないなんて悲しい女性だ……」と、あくまでも上から目線である。こういう気取りがたぶんフランス男なのだ。

そう考えると、上流階級のフランス男でありながら情熱恋愛――これはフランス的価値観からいえばたぶん、オシャレでもスマートでもない、カッコ悪い恋愛ということである――を唱えたスタンダールは勇敢な異端児だったのかもしれない。この本は「口のうまいスカした野郎なんかより、オレの方こそ偉い」という逆襲の書であり、「不器用上等!」「片想いバンザイ!」という革命の書でもある。

スタンダールには悪いが、私は昔から片想いはするのもされるのも嫌いで、あまり綺麗なイメージは持っていない。10代の頃ワルぶって「あたしは手に入らないものに興味はないの」と言い放つと、頭のいい友人が即座に「あたしはそこまで利己的になりたくないな」と応酬して、そのウィットに感心した記憶もある。

それにしても、AはBが近くにいるだけで幸福で、ちょっと顔を見ただけで嬉しい。一方Bの方は、Aの存在に一片の喜びも見出せないし、Aのバカげた顔を見るだけでも腹が立つ。それが片想い、だとすれば、される側には何の楽しみもなく、している側だけがスリルや快楽を得るという、いわば泥棒みたいなものではないのか。もし一方的でないとしたら、される側も鉄面皮で「俺様に片想い?フフン、されてやってもいいぜ」という、相当に自己陶酔的な神経を持っている必要がある。

とはいえ、相手が素晴らしい人だから、自分ももっと成長しなければ、学ばなくては、鍛えてカッコよくなってセンスも磨いて……などと思っているうちは、まだ真っ当な片想いなのだろう。ただそんなふうに、人知れぬ恋を開花や変革への起爆剤にするだけのエネルギーがあるのは、多くの者にとってごく若いうちだけかもしれない、とも思うのだ。女は「いくつになっても素敵でいたい」などと野望はあるものの、だいたい面倒なことはいやなのだし、男も早々になまけて守りに入る。

向上心を失った片想いは安易な方へと流れ、相手にふさわしい人間へと自分を高めようとするのではなく、逆に相手を自分のレベルに引きずり下ろして考えることでつじつまを合わせようとしてしまう。真におぞましいのはそこなのだ。

ちょうど欲しいものがあって手持ちが足りないとき、目当ての品の美点はなるべく低く見積もり、欠点はめざとく見つけ出して値切り倒そうとするようなものである。そうなると同じ穴のムジナになって安心したいばっかりに、相手の弱みを握って喜んだり、好きなのに貶してセクハラ野郎と言われてしまったりするのだ。私は自分を引きずりおろそうとする視線を感じたことも多々あるし、逆に自分が心の中で誰かを引きずりおろす可能性にゾクリとすることもある。

 さて恋とはかくも厳しい教師なのだが、スタンダールは考えた末、「ひとりトキメキ」な境地に達してしまったらしい。突き抜けてしまったやつは強い。「恋焦がれる喜びも痛みも知らずに美女を抱いている男より、その美女を想って眠れずに過ごす男(つまりオレ)の方が幸福なのだ」というこの妙な優越感も、わかるのである。わかるのだが、当の美女にしてみれば「あんたはそうやって一人で盛り上がってて楽しいんだろうけど、それじゃあたし自身の幸福はどうなるのよ」とでも言うのではなかろうか。

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