日記・コラム・つぶやき

2011年4月25日 (月)

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2010年11月27日 (土)

みんな、人それぞれの幽霊

0292  幽霊の話をしていると、ときどき「自分は死が完全な消滅だという考えには耐えられない。魂や死後の世界を信じたい。だから幽霊も信じる」と言う人に出会う。私はこういう「信じたいから信じる」型の考えがどうにも好きになれない。ただ、年配者が理由をあえて自問することもなく「霊はいる」と言い切ってしまうのに対して、若者は「だって信じたいんだもーん」と、自分のご都合主義をちゃんと自覚している、つまり客観性があるといえるのかもしれないが(それに「絶対に信じない」という頑迷で無味乾燥な世界観よりはずっとましだとも思うのだが)。

死んだらどうなるのか、今生きている者にはあくまでも「わからない」はずなのだ。私は死が完全な消滅という可能性は充分あると思っているし、それを否定してしまうのは卑怯な逃げの姿勢に思える。もしも死が消滅で、魂などというものが幻想ならば、「何も残らず消えてゆく自分」という事実に、とことん向き合うべきだと思っている。自分で言うのも変だが、私の中でこの探究心だけは強烈に純粋なので、絶対に誰にも汚されたくない。

であればこそ、最後の日々が孤独なのは悪いことではない。納得いく死を迎えられない原因は、もっと別のところにあると思う(たとえば貧困や、現代の病院のシステムなど)。死という過酷にして荘厳な、人類最大の謎と神秘を目の前にしたとき、まわりを浅はかな人々に囲まれて能天気な慰めなど聞きたいと本当に思うのだろうか? 死の前では誰しも無力で孤独、そこからどんな自分なりの真実を見出すかが重要なのに、甘えやごまかしでそれを曇らせるのはもったいない。

最近聞いたのだが、こういうことは末期病棟の医師の間でも意見の分かれるところらしい。「死に直面することは、自らの死という現実を厳しく突き詰めてゆくことによって悟りに到達する機会。安易に信仰や幻想に逃げ込んで目をそらしていては、せっかくの高い精神性を得る機会を逃す」と主張する人がいる一方で、「最後の時をせめて心安らかに過ごせるならば、たとえ虚構であっても、その人が信じたいものを信じればいい。医師として、患者の救いとなる信仰や幻想は、大事にしてあげるべき」と主張する人もあるという。

これはたぶんどちらも正しい。私だってなにも、天国を信じて穏やかに微笑んでいる末期患者に向かって、わざわざ疑問をつきつけたいとは思わない。しかし近々死ぬ予定があるわけでもなく、まだ充分精神の耐性があるにもかかわらず、早々と幻想に逃げ込んで探求をやめる算段をするのはあんまり情けない。若いうちから「ひとりはさびしい」「愛する人々に囲まれて死にたい」などという人に出合うたび、「ああ、この人も同志ではなかった」という際限なく繰り返される失望の中で私は生活している。これは物理的な孤独とはまた違った、思想の孤独である。

ところで私の家はもともと、曽祖父の代から神仏(ひいては死後の世界)の存在を、完全否定していたという。だからといって信仰抜きに死と向き合うことの厳しさを伝えていたとは言いがたく、単に科学至上主義のはしりだったのかもしれない。親族の中には、彼の思想に逆らって熱心な宗教信者になった女性たちもある。

私自身、子供の頃「死っていうのは無なの。なんにもなくなるってことなんだよ」と聞かされていた。しかし子供にも子供なりの文化があるので、「幽霊はいるのに。大人はバカ」と思っていた。それは大人たちのつまらない合理主義と、自分たちの豊かな夢想の世界とを隔てる、ひとつの障壁でもあった。19歳頃に、あるヒッピー的思想がひらめいた。それは、

「この世の生命は、草花や水中の微生物に至るまで、すべて繋がったひと続きのもの。すべては地球と呼ばれるこのひとつの巨大な生命体の一部に過ぎない。つまり地球を一人の人間にたとえたら、動植物はその細胞のひとつ。私が死ぬという事は、その人間から髪が一本はらりと抜け落ちるのと同じ、無数にある細胞の代謝に過ぎない。私という細胞が剥がれ落ちたとき、地球上の別の場所では新しい種が芽吹き、新しい蕾が花開いている。その瞬間ある場所では鳥が死に、別の場所で蜜蜂が生まれている。すべての生命の誕生と死は地球にとって等価値であり、自分の生死だけが一大事と思うのは人間の主観」

こんなことは、もう何世紀も前にどこかの哲学者が考えて、特別新しいことでもなんでもないに違いない。しかし私にとってはまぎれもなく自分の思いつきであって、当時は熱狂して誰彼かまわず喋りまくったほどの大発見だった。

しかしこの考えも、「ある事件が起きると、その空間(建物や家屋)に見えない傷が残る。幽霊とはすなわち空間の記憶が映し出すもの」という『シャイニング』式の考えと矛盾はしない(少なくとも私の中では矛盾しない)。この理屈によると、幽霊とは死者の霊魂ではなく、ある場所に強く焼きついた残像のようなもの、ということになる。だから魂は常に流転するとする輪廻転生思想とも矛盾しないし、逆に「魂は存在しない」という考えとも矛盾しない。私はこの空間説がけっこう好きだ。

ともかく闇の世界の探求は最後の瞬間まで完結しないはずで、だからこそおもしろいのだ。

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2010年7月28日 (水)

天使たち

012  今の私は、天使と悪魔はそれほど大きく違うものではないと思っている。伝説でも天使と悪魔はもともと同じ生き物で、天使の一部が神に逆らって堕天使になり、さらに悪魔になったという。しかし聖書にあるエホバの神、あれは本来古代人向けの、それも男の理屈だけを反映させた神だ(その点では仏教も同じと感じる)。だから悪魔たちがあの神を認めなかったというなら、天使に留まっていた連中より先見の明があったわけだ。

 私には、天使信者だった時期もある。キリスト教とは関係ない、あくまでも新時代の天使信者だった。悪魔に関する師匠は大勢いるが、天使学における私の師匠はひとりしかいなかった。「エンジェル・ブック(鈴木純子訳・VOICE出版)」の著者テリー・リン・テイラーである。

 テイラーはニューウェーブで、たぶんヒッピーの末裔、生粋のカリフォルニアっ子だ。私の印象では、異常とまではいえないがやや特殊な脳をもった躁病ぎみの人物、地元ではちょっとした名物女なのだろうと想像する。彼女は、すべての宗教は表現や解釈が違うだけで、基本的にひとつだと言っている。多神教ではない。彼女の考える神とはあくまでも創造主であり、これすなわち「無条件の愛」なのだそうだ。

 私が天使学における師をひとりしか見つけられなかった理由は簡単だ。美術や文化財の検証を目的としたものは別として、天使本の多くはバカバカしい。でも「エンジェル・ブック」だけは単純な日和見主義とは感じなかった。とてつもなく実践的だったのだ。現実逃避どころか、天使を現代の実生活に応用して困難を乗り切り、創造性を高めて飛躍をとげようという野草のごときたくましさがあった。

 テイラーを見つけたとき私は美術学科の学生だった。彼女の理論には当時の私を引き付けるところがあった。彼女は独創的で心底リベラル。どこにも属さない。もし違った状況で育っていればパンクか革命家になっていたかもしれないような、アナキズムの香りすらある。

 そして自身が芸術家であるところ。「エンジェル・ブック」の巻頭カラー絵は彼女が描いたものらしいのだが、これが私にはちょっとしたセンセーションだった。

 そもそも、私の美の基準はそれほど広くない。白人の特徴だけ濃厚な、ほっぺの赤いブロンドの天使画にはシラける。仏像はデブの範疇に含む。エジプト壁画の神々の魅力ならわかるが、頭部は動物でも首から下は常に18歳の水泳選手のごとき肉体、という素敵なお約束あってこそだ。いったい、自分よりまずい裸体の持ち主を崇拝できるものなのだろうか?「芸術だから」といわれても納得できない。でもあいつ、あの天使は違った。

 背景も何もなく、真ん中に描かれた全裸の天使、そいつは私の基準だけでなく一般的基準から言っても美しくない。色は水死体みたいだし、やけにゴツい肩幅と短い筋肉質な腕は優美とはいいがたく、小さくしなびて垂れた胸、ふやけた腰つき、脚は太く、翼は貧弱で左右不ぞろい――。

 にもかかわらず、そいつは美しかった。それが謎なのだ。新旧問わず美の基準からことごとく外れた裸体をさらし、けろりと澄ました顔で耳鼻科の綿棒みたいなステッキを持ったそいつ、出来損ないのアンドロギュノス、歳をくったキューピッドみたいなものが、なぜか文句なく神聖に見える。つぶらな眼差しと唇だけは愛らしいが、かといって服を着せると浅薄になり、首から下を隠すと存在感が消える。やはり全体として、このアンバランスでフリークめいた裸体あってこそのやつなのだ(ヤツといったら失敬なようだが、年齢や性別が見事なまでにぼかされているので、なんとも言いようがない)。

ところでこのテリー・リン・テイラーも、私が今の考え――天使と悪魔はそれほど大きく違わない――に至った理由の一つだ。つまり、天使は悪魔以上に人の苦悩がわからない。わからないこそ天使なのだ。

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2010年6月27日 (日)

魔学入門

114 ※これはあくまでも私個人の解釈である。伝統的悪魔崇拝の方々が同様に考えていたかどうかはわからない。

 映画「アダムス・ファミリー」の冒頭で、寝室で目覚めた夫妻が、いかにも普段どおりに、といった風情で挨拶しあう。

「不幸かい、おまえ?」

「胸が張り裂けそうよ」

 逆説的ではあるが、たいへん自然で奥ゆかしく、正当な挨拶にきこえる。そう感じられるのはなぜなのか?

 まずは以下の文章を参照していただきたい。

 たとえ、自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には辛いことばかりじゃないか。難民問題にしてもそうだし、飢えや、差別や、また自分がこれこそ正しいと思うことを認められない苦しみ、その他、言い出したらキリがない。深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。

 だから、自分は幸福だなんてヤニさがっているのはとても卑しいことなんだ。 

 たとえ、自分自身の家が仕事がうまくいって、家族全員が健康に恵まれて、とてもしあわせだと思っていても、一軒置いた隣の家では血を流すような苦しみを味わっているかもしれない。そういうことにはいっさい目をつぶって問題にしないで、自分のところだけ波風が立たなければそれでいい、そんなエゴイストにならなければ、いわゆる“しあわせ”ではありえない。

       岡本太郎著「自分の中に毒を持て」より

 ここまでわかっていればもう、悪魔学まではあと一歩だ(もっとも岡本太郎はいわば芸術崇拝ともいうべき考えなので、霊や魔の存在には興味がなかったようだが)。

 つまり、個人の幸福とは神に祈るべきことではない。宗教はもともと恵まれたいとか安定したいとか、○○がほしいといった欲望それ自体を否定している。神仏への祈りとは「私が煩悩をのりこえて悟りをひらけますように」というものであって、困難が物理的に消滅することを願うものではない。むしろ会社で大抜擢でもされたかのように、「神様、この試練に感謝いたします、つきましては私が精神的および霊的に成長するのを見守っていただければ幸いでございます」とでも言わなくてはいけないような、謙虚さを強いるものだ。

 それがいやなら、ただひたすらがんばるか、政治運動か社会活動でもするしかない。最低限の幸福が人の権利というならば、それは神仏ではなく政府の責任である。

 昔の西洋人は、神頼みしていいこととできないことの区別をはっきりしていた。だから悪魔崇拝があったのだろう。日本はそのへんが大雑把だから、商売繁盛とか無病息災とか、とりあえずなんでも神に祈願しとけばいいということになっている。

話はそれるが、ある神社で外国人観光客が書いて行ったらしい絵馬を見かけた。そこには、「私の家族と友人たちがいつまでも健康でありますように、彼らの心が平和で、たくさんの愛とたくさんの幸福に恵まれますように……」といった内容が英語で隅から隅までいっぱいに書かれ、終わりには Thank you”と付け加えてあった。日本語なら「家内安全」と四文字で済むのに、ご丁寧なことである。

ただ、それも一見他利的なようで、「自分」の範囲をわずかに広げただけの卑小な考えに過ぎない。一人の人間の家族や友人知人の数など、たかが知れている。そのわずかな人々を自己の延長とみなし、小さなシェルターの中で自己満足しているだけだ。それはペットと似ている。「ウチのコさえ元気なら」とまことに勝手な理屈で、ある個体だけをかわいがってデレデレしている間に、日々たくさんの行き場を失った犬猫が保健所で死んでゆき、家畜たちは窮屈な囲いの中で病気になっているのである。

もし本当に他者の幸福を祈るというなら、見ず知らずの人間だろうが、自分と血がつながっていようがいまいが、すべての人類や動物たちの幸福を願わなければならないはずだ。

 しかし多くの人間は、「すべての生命体が救われますように」などという宇宙規模に等しいことはなかなか考えられない。望みは自然と悪魔的なものになってゆく。

 「あいつに復讐したい」「やつがオレと同じように不幸になるように」と願う(というか呪う)のであれば、力をかりる対象は当然悪魔だろう。同じ理由で、「金持ちになれますように」とか、「あのひとの心を永遠にあたしのものにしてください」「あの仕事が手に入りますように」などもすべて悪魔の管轄である。

「お母さんの癌が治りますように」などというのはどうか。私は、これもやはり悪魔に祈るべきことと考える。さらにエスカレートして「死んだお母さんが生き返りますように」とでもなれば、これがいかに自然の力や神の采配を無視した悪魔的な願いであるかは、古来の伝説からホラー小説にいたるまで脈々と表現されてきたとおりだ。

もちろん、悪魔は必ずしも望みをかなえてくれない。彼らはいたずら好きだから、願い事を逆手にとってもてあそばれるかもしれない(「マクベス」は、悪魔に遊んでもらった幸運な男の物語である)。魂と引き換えに願をかなえるという伝説があるとおり、たとえ願いが聞き届けられても、なんらかの代償を差し出すことになるかもしれない。そこには、運命を擬人化したようなおもしろさがある。

 彼らの気紛れも恐ろしさも覚悟の上で、なお闇夜に生贄の血を流し、魂を売ってでも超自然の力を借りたいと願う情熱――その有様の、なんと人間らしいことだろう。そして幸福や快楽への望みというものが、基本的に背徳的だという了解のもとに成り立つ点、それが悪魔の深さであると思うのです。

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2010年1月 7日 (木)

謎の足音

091231_133301 ←猫の幽霊 (でもよく見ると足がある)

※これはお正月に、本当にあった出来事である。私は完全に目を覚ましていたし、甘酒一滴飲んでいなかったと誓える。といっても実際わけがわからないので、結論も何もない。

 私はさる公共施設のトイレの、洗面台の前に立っていた。トイレには、そのとき自分一人だった。私はハンドドライヤーを愛用しない(あれで完全に手が乾くことは少なく、一説によると機械自体が細菌の温床である)ので、いつもハンカチがいる。そのときも下を向いて、カバンに入れたはずのハンカチを探していた。

 後ろから足音がして、トイレに誰かが入ってきた。それは不思議な足音だった。体重のとても軽い、たとえば子供の靴音のようだが、歩幅や、落ち着いた足取りはたしかに大人のものだ。

続いて、はっきりした気配とともに、誰かが私の後ろを通った。私はあいかわらずカバンをいじっていて顔を上げなかったが、通りすぎる瞬間、後ろ髪がフワッとした。相手が肩で風を切ったのが私の後頭部に感じられたわけだから、このことからも、少なくとも私と同じくらいか、あるいはそれ以上の背丈の者ということになる。

 さて、女子トイレだから、入ってきた→洗面台のわきを通過した、となれば次は当然、個室のどれかに入るはずである。ところがいつまでたっても、個室のドアが閉まる音がしない。そこではじめて顔を上げて見回したが、誰もいない。奥の方までのぞいてみたが、どの個室もカラッポで、ドアが開いている。

 確かに今、誰かが入ってくる足音がして、後ろを通っていく気配があった。ところがそこにいるのはやはり私一人なのだ。これは一体どうしたことか。

a)目に見えない天使が通った(そして個室に入ったが、翼がかさばるのでドアを閉められなかった)

b)カメレオン仕様のエイリアンが通った(そいつは洗面台を使いたかったので、壁と同化してじっとしたまま、私が出て行くのを待っていた)

c)バレリーナが軽やかな爪先立ちのまま歩いてきて、ちょっと鏡を見て、私が顔を上げる前に立ち去った

 空白を嫌うという人の脳の習性により、わからないことには仮説を(たとえどんなにばかばかしいものであっても)、立てずにはいられない。しかしこんな現代建築の中にいて、すぐにホラーモードになるのはむしろ難しいことがおわかりいただけるだろうか。

ここでひとつ、霊を自らの敵対者、迫害者とみなす者たちから、目に見えない存在たちを擁護したい。不可解なことが起きた時、即座に「悪霊」「自分が害を受ける」という発想を浮かべるには、日頃からの刷込みによる暗示と、一種のマゾ的資質が必要ではないのか。

 ところで、相手の姿が見えなかったこと自体は、アレッ?という程度のことに過ぎない。不思議なのはやはり、足音の軽やかさと、気配から察せられた相手の大きさとのギャップだ。何かが私の感覚をあざむいたのだ。

 普通、無意識のうちに五感で集めた情報――近付いてくる相手の大きさ、年頃、性別――などは、たいてい裏切られない。たとえば、杖をついている二人の人間がいたとする。しかし部活で足を怪我した高校生が杖をついている時の、せっかちでもどかしげな足音は、80歳の人が杖をついて歩いている時の足音とはどれだけ違うことか。誰でも無意識の中でこのことを知っている。だからこそ矛盾する知覚情報(つまりギャップ)は違和感として認識され、深い印象を残すのだろう。

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2009年12月15日 (火)

妖怪 肋骨男

011  健康診断で胸部レントゲンを撮った後、問診だというので呼ばれて行ってみると、個室にダンディな美中年の先生が座っている。ちょっと話してから、先生が机の上のノートパソコンをいじって、私のレントゲン写真を出した。それを見ると「む!?」と画面に顔を近づけ、肋骨の数をかぞえはじめた。それから今度は、定規で計ったりしている。そのうち「……ま、いいでしょう」というので、「はあ」と、そのまま出てきてしまった。

 何だったんだろう……

 こんなの思いついた。

 ○妖怪・肋骨男 

 クリスマスイブに深夜まで仕事をしていると、やつが出る。

ふと顔を上げてみると、部屋の隅に、黒いコートに身を包んだ痩せた男が座っている。彼はセクシーな声でささやく、

「俺の肋骨 かぞえてみたくないか?」

「いやです」と答えると、その人の肋骨を一本抜き取ってゆく。

「はい」と答えると、間近にせまってきて、コートの前をがばっと開く。すると、首から上は美しい男だが、コートの中身は骸骨である。彼は自分の肋骨を指さして言う。

「ここを見ろ。一本欠けてるだろう。実は、俺は去年の冬に……」

・自分を解雇した会社のビルの屋上から身を投げた

・ぶらぶらしている弟に注意したら金属バットで殴られた

・愛していた女に裏切られ、バイクで壁に激突した

・忘年会で先輩に無理やり飲まされ、泥酔して駅の階段を転がり落ちた

  などの話を、相手によって使い分けるが、本当の理由は謎である。

 ケーキやシャンパンをあげると、飲んでも食べても骨の間からこぼれてしまうので怒り出し、腹いせに肋骨を奪われてしまう。

 キャンディーをあげると、機嫌を直して立ち去ってくれるかもしれない。

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2009年10月26日 (月)

ことりのための小歌

015 :

:

腕を広げて飛び降りた

舞い来たるは鳥 彼女は鳥

最果ての街 散る羽毛

翡翠の翼 堕ちたとたんに黄金に染まり

.

不自由はしてない 肥えた鳩

おいしそうでしょ おいしそうでしょ

鴉はおしゃべり 懐疑と会議

小鳥は叫ぶ 籠の中

歌えど答えぬ モルタルの森

.

無欠の装備で生まれたはずが

惑えば迷宮 待つは鵺

袋路地には 開いた鳥籠

飛び込んだとたん 扉が閉じる

.

まあ待ちなさい あの窓から

雀たちに言伝たくして

五千年ばかり食いつなごう

そしたら塔にも登れるだろう

そしたら自由になれましょう

.

腕を広げて飛び出した

彼女は鳥 彼女は鳥

吐息はメタン 鬼火の翼

.

長い尾羽はほうき星

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2009年8月10日 (月)

休業中

ご訪問ありがとうございますm(_ _)m

多忙中につき しばらくお休みしております

それではみなさま

残りの夏をむさぼりましょう

:

002 羅の 雲を針もて 繕はむ

破れ目の蒼 冴えすぎるゆえ

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2009年7月19日 (日)

永遠の美しさについてのいくつかの考察

005 ある日の考え:

美しくありたいと思うことは、経済機構の奴隷と化すことへのレジスタンスである。なぜならそれは個を主張することであり、必然的に、均一化されたいつでも交換可能な労働力(または兵力)と見なされることへの拒否であるからだ。個性を追求し身を飾ることは、快適さや幸福を得る権利を無言のうちに主張する。

逆の見解。小宮の昔の小説からの抜粋:

宇宙人「おまえはキレイになったな(棒読み)」

地球人「はあ? 意味わかって言ってんの?」

宇宙人「もちろん知っている。それは体制に従順な者に対する賛辞だ。その言葉に値する者とは、上位者が定めたある一連の価値基準を満たし、自ら意図して逸脱することはない」

        *

 若さを保つこと:

 今までのところ、人が(外見的に)早く老けこむか、あるいはいつまでも若く見えるかを決定するのは、生まれつきの要因(つまり遺伝的な素質)プラス、生活環境(当人の努力、または階級・階層・経済的格差などもここに含む)である、というのが私の考えだった。

いまだ謎の多いもうひとつの分野……内面的(精神的)要因について。

最近気付いた事象:

実際の年齢に対して極端に若く見えるのは、むしろ要注意人物である。年相応の責務や社会活動、真剣に何かに取り組むとか他人の世話を引き受けているとかの、つまり本当に裏表なく発展的で良心的な人物は、そういつまでもピチピチ、ツヤツヤしてはいない。ヴァンパイアが年をとらないのは、人の生き血を吸っているからだということになっている。現実の人間でいえば、他人を犠牲にして楽をしているとか、逃げるのがうまい、怠慢とかいった、必ずしも好ましくない性質を隠し持っている場合がありうる。

補足:変人もしばしば年齢不詳である。

反証:生まれながらに強靭で、激務を経ても枯れない人間も稀にあるようだ。

メディアへの批判:美容家たちは「若々しく明るく可愛らしく元気に見えるメイク」などと言い、その目標そのものを疑わない。苦難をくぐりぬけてビターな味や枯れた魅力を増した中年女性の顔を表現する、新しい賛辞を考案すべきである。

          *

女性は恋や満ち足りた性生活や、または出産によって綺麗になるという説:

甘い嘘、幻想。あるいはブルジョアのたわごと。冷静に鏡を見れば、あるいはちょっとまわりを見回してみれば、しまりのない、うすらトボケたような顔になった満ち足りた恋人たち、出産前と比べてあきらかに容色の衰えた乳児の母……などはいくらも見つかる。ただし、きっかけとなった出来事以前の状態によっては真実となる。

実例。あるとき、職場にいた太りすぎの女性が、恋人と暮らし始めてから痩せて綺麗になった。その理由は、彼女がストレス解消と称してやっていた連日の飲み歩きを、倹約家の男が厳しく取り締まるようになったからということだった。

数ヵ月後。やはり性格が合わないと言い、彼を追い出して再び太った。

そのまた数ヵ月後。思い直して生活を改め、食事内容に気をつけてもう一度綺麗になった。禁酒を誓って彼を取り戻した(その後の消息不明、ただしこの時点では確かに前より良かった)

ある初老の女性の反論:「離婚や死別をきっかけにきれいになったり若返ったりする女性も多い」

抜粋(何の本だか忘れた):

アメリカで、年をとっても若くてきれいなのはどんな女性なのかを調べて職業別に分類したところ、最も老化の遅い職業とは、修道女だった。

 疑問。修道女なら恋人もなく、離婚もないはずだ。しょせん人生のドラマより、日々の地道な生活管理に軍配が上がってしまうのか。

                   *

心が容貌に影響を与えるという説に対する、経験に基づく懐疑:

私が本当にうら若かった頃、夜中にひとり部屋に座って、ある人の生皮を剥いで目玉を抉り出そうかという、暗い怒りと復讐心を燃やしてスプラッタな夢想にふけっていた。その最中にはっと振り向いて鏡を見た。するとそこに鬼か妖怪のような自分の顔があった、というなら筋が通る。しかし現実にそこに映っていたのは、あっさりした顔に目をキラキラさせた、むしろ普段より瑞々しいくらいの自分の顔なのだった。その、あまりにも内面と裏腹の、アッケラカンとした顔を見て我ながら驚き呆れ、「まったく外見とはアテにならないものだなあ」と思ったのだった。

ジュネ的補足:強いて言えば、私はその時うしろめたさを感じていなかった。だからそれは「憎いと思いつつそんな自分を恥じて苦悩している顔」ではなく、ただ単に「熱心に考え事をしている顔」でしかないことになる。

さらに補足:仮に10年や20年間ただひたすら同じ事を思い続ければ、外見に反映されるかもしれない。しかしそこまでの集中力は俗人にはない。

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2009年6月27日 (土)

マイケル・ジャクソン、西洋のお殿様、天才、怪人

001 ←これはうちのお殿様

ちょっと上の世代だとか、ファンの人は、こんなもんがマイケル・ジャクソンの思い出だと言ったら気の毒がるかもしれない。もちろん輝かしい業績は知っている、というか知らずにいる方が難しい。ただ私にとってはあの怪人みたいなのがマイケルなんだし、お小遣いで大人の雑誌を買ってよくわからないながらもいっしょうけんめい読んだ「いつまでも子供のままでいたがる心……黒人、白人、男、女、そういったことを超越し、あるいはそのすべてでありたいという願望……」というようなことが書かれた記事も憶えている。私は思う、「これがあたしの時代なの、それでいいんじゃない?」

(しかしその記事というのが、残念ながら今となっては、記者の名も、誌名すらもわからない……)90年代のこと、分厚い映画雑誌を買うと、たまたまマイケル・ジャクソン児童虐待疑惑を受けて書かれた長い記事がのっていたのだ。その中で、訴えた子ではないが、マイケルと親しくしていた10代前半の少年の証言が紹介されていた。その内容はたしか「マイケルが僕の前に跪いて『キスして』と懇願した。僕が断るとマイケルは泣いた」というようなものだった。見方によっていろんな解釈ができてしまう話だった(後になって、私は自分が読んだその少年の証言を、2人の友達に話した。1人は「やっぱりマイケルはあやしい」と言い、もう1人は「そんな繊細な人が虐待や暴行をしたとは思えない」と言った)。これは悪意ある記事ではなく、写真もほとんどなかった。哀愁漂う謎めいたセレブ、というような、意味深でちょっと文学的な書き方がしてあって印象的だった。

ちょうどその騒動のあった頃のこと、私が電車の中に立っていると、すぐ前のシートに5、6人の中学生くらいの男子がずらりと腰かけて喋っていた。その会話というのが、

「マイケルが『100万あげるからやらして』って言ったらどうする? やっちゃう?」

「うーん」

「なんかさ、100万って言われてもピンとこないんだよね。何に使うの?」

「車買うとか」

「免許ないじゃん」

「全部100円玉に換えて、バケツに山盛りにしてゲーセン行くとか」

「いいね」

「親にバレたらどうする?」

「(裏声で)『あんたマイケルにやらせたでしょ。もうウチの子じゃありません!』」

「なんでウチの子じゃなくなっちゃうの?」

「でもさ、100万もらったら親だって黙っちゃうよね」

 あの記事で証言していたような、実際マイケルと親しかった少年たちの心情とは、どういうものなんだろう。そこらのどうでもいい変態オヤジならいざ知らず、あのマイケル・ジャクソンを足元に跪かせて、泣かせてしまうのである。まるでオペラ座の怪人を跪かせたクリスティーヌみたいに! 少年本人が支配の感覚のようなものをどれだけ持っているかはわからないが、もし自覚してしまったら、そのスリルや優越感といったらすごいものがあるだろう。政治家を手玉にとって悦に入っている銀座のホステスなんかとはレベルが違う。それを、何の手練手管もない(いやたぶんないからこそ)、若干12歳やそこらの少年がやってのけるのである。事の真偽はともかく、ああいった報道のために、どうかすると自分たちもそういう逆説的な力を持ちうる、という世の奇怪さや危うさを、あの電車の中学生たちも意識していたわけだ。つくづく奇妙な世の中である。

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