書籍・雑誌

2011年2月 1日 (火)

新春薔薇づくし

初めて読むとは思えないくらい妙になつかしい小説にたまに出会うが、これもそのひとつ。「まさか一度読んでド忘れしたんじゃないだろうな私」と疑ってみるが(こんなふうに自分を疑うのはサイコホラーみたいに怖い)、日本語訳が出たのが2004年だから、たかだか6年で内容をまるごと忘却することはありえない。たぶんこの本の影響を受けた作家がたくさんいて、そっちを読んだから知ってるような気がする?と考えるも、本国イギリスでの出版も95年で、作家たちの大先生というほど古い作品でもない。なんだかよくわからないが親しめる本。

51n13vwew8l_sl500_aa300_1「グノーシスの薔薇」ディヴィッド・マドセン著 角川書店

扉のコピー「聖下は女役を好まれる。まるで初夜の花嫁のように・・・」を見て思わずプッと笑ってしまった。ルネサンス時代のイタリアで、ひょんなことからおネエのローマ教皇レオ十世の側近になった男、ペッペの物語。

ブラックな笑い満載で、会話がいちいちおもしろい。世界史や美術史でおなじみの有名人たちも登場して裏話に花が咲く。レオナルド・タ・ヴィンチやラファエロの生態は抱腹絶倒だ。学生時代に「マルティン・ルター/宗教改革」と丸暗記した記憶があるが、ルター事件も詳しく盛り込まれていて「あーそういうことだったのね」と再確認できる。これは実在の人物ではないのかもしれないが、個人的にセラピカが好き。残念ながらジュリアーノ・メディチはあまり出てこない(藤本ひとみのメディチ小説では期待通り過ぎるくらいのスター扱いだったのに。そもそも教皇レオ十世といわれてもピンとこないので、「ジュリアーノの兄」と最初に書いてあればわかりやすかったのに)

 題の「グノーシス」とは語り手ペッペが信仰している宗教で、当時キリスト教会から見て異端とされ、弾圧されたらしい。なにが違うかというと、キリスト教ではこの世界は神が創ったことになっているのに対し、グノーシスは「神が創造したのは霊的世界だけ。物質から成るこっちの世界は、悪魔が神の世界を真似て創ったジャンク版だ。だからこの世は基本的に地獄であり、邪悪と苦悩に満ち溢れている。この物質界と肉体を軽蔑し、常に精神世界の高みを目指せ」と主張する。ようは「大事なのは物体より精神」という教義であるため、異形の小人であるペッペも教団の人々にあたたかく迎えられ、そこに居場所を見出す。

私には自然への敬意を欠いた考えに思える(もっと謙虚に「他の動植物は知らないけど人間は邪悪な存在です」と言うならまだわかるのだが)。教団の師アンドレアは、高い知性とカリスマ性を持ちながら、時に忠実な弟子のペッペさえ当惑させる奇行人間でもある。ただ信者たちが虐殺されたとき、ペッペが生き残った者から事件の詳細を聞くシーンで、教義に照らして「聞きたくなかったが、聞く義務がある。無知は悪魔の道具だから……」等々と語る、その哲学だけは非常に納得できる。

この宗教はその後どうなったのか、現代のスピリチュアリズムの原型のような感じもする。多分形を変えてどこかに受け継がれているだろう。

必見はもちろん、教団のラウラが改宗を拒んだ末に燃される場面。火刑の描写が凄絶で、美しくて、残酷、絢爛たる幻想と恐ろしくも悲しい現実の間を行き来し、サディスティックな興奮に沸き返る野次馬の熱気の中でエロチックな様相さえ帯びて散ってゆく。この後、師匠アンドレアが異端審問官への報復を決意。最後は円形闘技場の廃墟で宗旨のぶつかる男2人が全裸で死闘を繰り広げ、これがまたエロくて壮絶。そう、炎に包まれる恋人も、最後の肉弾戦も、伝統的アクション映画の要素。その精神性をペッペが鋭い洞察で暴露してみせる。彼から見ればきっと、これを楽しく読んでいる私も醜い野次馬。でも、いいの。なぜなら自分を知らないことは罪だし、聖女のごときわたくしにも過激で淫らでグロテスク好きな悪魔の血が流れていることを常に再確認しなくちゃいけないから・・・(という教義なんです、グノーシス)。

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2010年12月26日 (日)

ほんとのところ、サイコパスって?

031_2 「自分は何でも前向きに考える」「思い立ったらすぐ行動する」と自慢する人がいたら、「犯罪者もそういうこと言うらしいですよ」と言ってみることにしている。

ちなみにこれは本当のことだ(私は犯罪告白モノや犯罪ドキュメンタリー本が好きである)。

「どうして強盗なんかやったのだ、いくら金に困ったと言っても、まだ他に方法があったのではないか」と聞かれて、「自分は思いついたらすぐ行動に移さないと気が済まない性格なので」と答える犯人たち。

歴史に名を残す大泥棒いわく「興味のあるものしか目に入らない」。テロリストいわく「私はアイディアが浮かんだらすぐに具体的な計画を立て、どんな障害があっても実行するまで絶対にあきらめない」。

「非難なんか乗り越えて、必ず幸せになってみせる。私はこれからも自信を持って明るく前向きに生きるつもりだ」と、これが拘留中の殺人犯の手記だったりする。

 つまり私は、ポジティヴ・シンキングとやらそれ自体が賞賛すべきこととは思わない。善良と明るさはイコールで結べない。矜持、楽観主義、優れた集中力や実行力は、ビジネスだけでなく罪や悪徳、おそらく戦争においても加速力だ。廃れた道徳律の上にこれらの特長だけ祭り上げれば、悪もまた栄えるだろう。

では、真に両者を分かつものとは?

 最近こんなの見つけた。

511g1vj713l_bo2204203200_pisitbstic 「良心をもたない人たち ~25人に1人という恐怖~」マーサ・スタウト著 木村博江訳 草思社

個人的には原題の「The Sociopath Next Door」が好き。

小説や映画でとってもおなじみ、邪悪で冷血なサイコパス(もしくはソシオパス、反社会性人格障害)。私が子供の頃、少年マンガの敵キャラにはこの手合いが多く、25人に1人どころか4人に1人くらいの人口比になっていた気がする。よく「サイコキラー」「サイコ野郎」などというが、実際サイコパスの定義とは何なのか、その実態は……という疑問にわかりやすく答えてくれる。

 この本の良さは、下手に専門化されていなくて、視野が広いことだ。著者は現場経験の長いセラピストらしいが、精神医学だけでなく、生物学、社会学、遺伝子、有名なミルグラムの実験や、脳神経の比較(言葉に対する情緒反応を見るという検査はなんだか、P・K・ディックのSFの、アンドロイド発見器みたいだ)にも言及している。だから「ちょっと教授、あんたデズモンド・モリス読んでないわけ!?」「こういう研究もあるはずなんだけど、完璧無視しちゃってない?」というストレスがたまらなくてよい。

 犯罪者の多くは貧困や家庭の影響によるもので、最初から犯罪者に生まれてくるわけではない。しかし中には、どうにもルーツを探ることができない、善良な中流家庭から唐突に出現したとしか思えない凶悪人物がいることも、やはり事実のようだ。

現実には、サイコパスが連続殺人犯や独裁者になるとは限らない。そうなるのは、良心がないというサイコパスの特徴に、暴力や流血を好む傾向が加わった時だけだそうだ。この本には、不正行為をしつつも成功している実業家、売人兼業セクハラ高校長、育児放棄のジゴロ男など、より身近な例が出ている。

ところで著者の考えでは、良心とはすなわち愛であり、揺るぎなく人の感情に根付いたもの、またその基盤はかなり生得的なものでもあるらしいのだ。これはやや意外だった。

私はやさしさとは自然発生的な感情というより、教養であり、礼儀作法、最終的にはその人の美学や思想だと考えている。それを宗教から借りてくるのか、一族や師の規範にならうか、独学するかといった違いがあるだけで、ようは学問のようなものとみなしている

(そういうわけだから、「僕は単純なので」とか「オレは何も考えてない」とか、あたかも純真さの証のように言う人が不可解だ。というのは、人間は何も考えなければ自動的に自分の利益になることしかしないと思っているからで、単純な人といったらすなわち狡猾で自己中心的な人、ということに私の中ではなっているからだ。「無学でも愛情深い人はいるではないか」と言われても、その人物は少なくとも関係性という面では無知ではなかったというだけの話で、親切=鍛えられたセンス、愛=知であるという私の考えと矛盾はしない)

しかしこの著者、言い換えれば大部分の人間には普遍的な良心なるものがある、と信じているわけだ。長年の経験と研究からその結論に達したのか、それとも最初からそれが職業上の信念だったのかは不明だが、そこが持ち味と思う。

ちなみに、一連の資本主義向け発想(ポジティヴ・シンキング含む)はもともとアメリカから日本に輸入されたものだが、この本の中では「自分本位の文化」と呼ばれ、サイコパスを生み出す土壌であると指摘されている。

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2010年10月 2日 (土)

恋愛論

Photo これまた家の奥から出てきた古い本。

「恋愛論 上・下」スタンダール著 前川堅市訳 岩波文庫

18世紀の人々の不思議な生活が垣間見えておもしろい。恋愛論というより社会論のようでもある。「女子教育」という章では、教育の場における男女の不平等を指摘している。なかなか先駆的な人なのだが、自分の分野では保守的になるのか、女性が作家になることを否定している箇所もある。「家族を養い育てるために著作をする場合のみ、例外として女性が作家になることを認める……その場合、常に金銭上の利益からのみ自分の作品を語るべき」等と語った後

たとえば騎兵隊長に向かって「あなたはご職業柄1年に4千フランおとりになるそうですが、私は去年英語の翻訳を二つしまして、2人の息子の教育費に3千5百フランよけいに出せました」などというべきである。

というので笑ってしまった。

そんなところはよくわからないが、時代を越えて目から鱗な洞察もけっこうある。たとえば、

 フランスで娼婦がおかしなほどもてはやされるのは、虚栄心が原因だ。

 スタンダールは「祖国を愛するがゆえ」としながらも、フランス人を辛辣に書いている章もある。彼いわく「フランスは恋愛結婚が一番少ない国だ」。そして「パリで恋を見つけるには、教育の欠如と虚栄の欠乏と、真の貧困への闘いとが残されている階級まで降りて行かねばならない」のだそうである。

貧困層のことはわからないが、ブルジョワについて言えば、彼らの自尊心と虚栄心がハンパないのは本当だと思う。近代人の方がむしろ、その伝統を自省抜きで露骨に表す気がする。たとえばパトリス・ジュリアンはエッセイ集の中で、こんな体験談を披露している。彼はある女性を、彼女のSM趣味を知りながら誘った。彼女は一応相手にしてくれたが、あまり燃えなかったらしい。それはおそらくジュリアン氏に縄師の才能がないせいだから、そのまま「僕では不足だったらしい」と言えばいいのに、彼は「極端な行為でしか興奮できないなんて悲しい女性だ……」と、あくまでも上から目線である。こういう気取りがたぶんフランス男なのだ。

そう考えると、上流階級のフランス男でありながら情熱恋愛――これはフランス的価値観からいえばたぶん、オシャレでもスマートでもない、カッコ悪い恋愛ということである――を唱えたスタンダールは勇敢な異端児だったのかもしれない。この本は「口のうまいスカした野郎なんかより、オレの方こそ偉い」という逆襲の書であり、「不器用上等!」「片想いバンザイ!」という革命の書でもある。

スタンダールには悪いが、私は昔から片想いはするのもされるのも嫌いで、あまり綺麗なイメージは持っていない。10代の頃ワルぶって「あたしは手に入らないものに興味はないの」と言い放つと、頭のいい友人が即座に「あたしはそこまで利己的になりたくないな」と応酬して、そのウィットに感心した記憶もある。

それにしても、AはBが近くにいるだけで幸福で、ちょっと顔を見ただけで嬉しい。一方Bの方は、Aの存在に一片の喜びも見出せないし、Aのバカげた顔を見るだけでも腹が立つ。それが片想い、だとすれば、される側には何の楽しみもなく、している側だけがスリルや快楽を得るという、いわば泥棒みたいなものではないのか。もし一方的でないとしたら、される側も鉄面皮で「俺様に片想い?フフン、されてやってもいいぜ」という、相当に自己陶酔的な神経を持っている必要がある。

とはいえ、相手が素晴らしい人だから、自分ももっと成長しなければ、学ばなくては、鍛えてカッコよくなってセンスも磨いて……などと思っているうちは、まだ真っ当な片想いなのだろう。ただそんなふうに、人知れぬ恋を開花や変革への起爆剤にするだけのエネルギーがあるのは、多くの者にとってごく若いうちだけかもしれない、とも思うのだ。女は「いくつになっても素敵でいたい」などと野望はあるものの、だいたい面倒なことはいやなのだし、男も早々になまけて守りに入る。

向上心を失った片想いは安易な方へと流れ、相手にふさわしい人間へと自分を高めようとするのではなく、逆に相手を自分のレベルに引きずり下ろして考えることでつじつまを合わせようとしてしまう。真におぞましいのはそこなのだ。

ちょうど欲しいものがあって手持ちが足りないとき、目当ての品の美点はなるべく低く見積もり、欠点はめざとく見つけ出して値切り倒そうとするようなものである。そうなると同じ穴のムジナになって安心したいばっかりに、相手の弱みを握って喜んだり、好きなのに貶してセクハラ野郎と言われてしまったりするのだ。私は自分を引きずりおろそうとする視線を感じたことも多々あるし、逆に自分が心の中で誰かを引きずりおろす可能性にゾクリとすることもある。

 さて恋とはかくも厳しい教師なのだが、スタンダールは考えた末、「ひとりトキメキ」な境地に達してしまったらしい。突き抜けてしまったやつは強い。「恋焦がれる喜びも痛みも知らずに美女を抱いている男より、その美女を想って眠れずに過ごす男(つまりオレ)の方が幸福なのだ」というこの妙な優越感も、わかるのである。わかるのだが、当の美女にしてみれば「あんたはそうやって一人で盛り上がってて楽しいんだろうけど、それじゃあたし自身の幸福はどうなるのよ」とでも言うのではなかろうか。

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2010年9月 4日 (土)

チャペリゾッドで夏休み

41e35rrda5l_sl500_aa300_1 「墓地に建つ館」 シェリダン・レ・ファニュ著 榊優子訳 河出書房新社

 私は今年の夏はアイルランドのチャペリゾッド村へ行ってまいりました(ただし頭の中で)、といっても過言ではないほど村に密着した長編小説。それもチャペリゾッドが最も華やかなりし頃といわれる250年前へ飛んで、当時の人たちの食事や娯楽や金銭問題、心の中まで覗き見つつ、美男美女から危ないヤツらまでそろったホットな村人たちとディープにお知り合いになれちゃいます。

 チャペリゾッドというのは初めて聞いたが、川あり森あり国立公園ありの美しい、閑静な村だという。本文中の記述によれば首都ダブリンまで馬の並足で一時間ほど、徒歩で行き来する者もいるくらいだから、当時としてもそれほど辺鄙ではなかったのだろう。

ところで私にとってレ・ファニュといえば、なんといっても名作「吸血鬼カーミラ」なのだ。この本もずっと怪奇小説と思っていて、犯人探しならぬ「ヴァンパイア探し」をしてしまい、中盤あたりで突然ミステリーだと気付いてしばし呆然である。この展開の遅さにはびっくりだ。とにかく前半は住人たちの生活や風物詩の紹介が多い――ただこのあたりをはしょらず丁寧にお付き合いして、頭の中に村のデータマップを作っておいてやると、後半で「あ、あのときのあの人がこうなったのね~」と楽しめるのだが――後日談も多いし、クライマックスも可能な限り引き伸ばされた感がある。犯人がわかって終わりどころか、逮捕場面はドキュメンタリーのごとく突入から連行までノーカットだし、裁判の様子から獄中生活まできっちり語られるのである。

逆に不思議になってくるが、現代小説の理想とされる「読者を最初の一行から素早く引き込み、決して飽きさせることなく、最後はスパッと終わる」という手法は何なのだろう。私自身は、とくに最後を長引かせずクライマックスの直後はただちに打ち切る、などというレイプか売春みたいなことを本に求めたことはない。クライマックス後もキャラクターたちのその後の生活に何ページでもお付き合いする用意があるのだが。しかしファニュは女性ではないし、とくに女性向けに書いたわけでもないだろう。時代の違いとしか説明できない。

さて物語は、ある老紳士が、親類の女性の残した手記などの資料をもとに、100年前のチャペリゾッドで起きた事件を語る、という設定になっている。この小説が書かれたのが1860年代だから、そのさらに100年前の1764年が事件の舞台だ。

ちなみにこの手記を残したことになっているレベッカ・チャッツワースは、個人的に一番気になる人物なのだ。

そもそもこのパソコンもコピー機もない時代に「すこぶるつきの詳細な日記」を残し、「さまざまな立場の人々にしたためた手紙にひとつ残らず写しをつくり、それぞれの封筒に赤インクで内容の要約を記していた」という冒頭のくだりを見ただけでも、筆マメで記憶力にも優れた知的な女性像がうかんでくる。

物語中でも期待を裏切らず、かなりの存在感を発揮する。「チャペリゾッドの事実上の最高権力者」ともいわれ、若い頃はいくつもの玉の輿をそでにしたという独身の中年。性格は口うるさく攻撃的、議論好きで、独自の価値観で手厳しく人を批判した、とある。

うらやましくて涙が出た。私も人からこんな性格だと言われたい。もし言われたらそれは、排除も抑圧もされずこれ以上ないほど自分らしく生きている証拠だから。彼女のような女性を許容し、敬意を払う文化的な度量の広さ、さらに言えば女性が個人資産を持つという西洋貴族の強み、なのだろうか。

彼女はボランティア熱心でもあり、「すべての女性が読み書きできるようにすべきだ」という信念のもと、ホームレス同然の人々を集めて給食無料の学習塾を開いている。また監獄を訪れて囚人を改心させたり、出所して行き場のない前科者を世話したりする(これは何かの伏線かとも思ったが、けっきょく事件には関係なかった)。階級格差がはっきりしていたこの時代、こうした行動は前衛的だったらしく、語り手さえ「一風変わった道楽」と冷淡だ。

そんなレベッカだが、決して地味で謹厳なだけの枯れた説教おばさんではない。登場ではこんなふうに紹介されている。

チャッツワース大将の妹のレベッカは上背があって姿勢がよく、豪華なレース飾りに張りのある見事なサテンをまとって、極上の扇を手にしていた。齢は間違いなくすでに55になっているはずながら、今なお実に瑞々しく、時折頬をほんのりと桜色に染める。目にはいたずらに感情に走らぬ強さが宿り、口元には精気が漲って、権高に喋りまくるきらいがあるとはいえ、いやでも惹きつけられてしまう人好きのする、一種魅力的ともいえる顔をしている。

と、黒柳徹子のようだ。普段着らしい場面でもたびたび「宝石のきらめく手を差し出し」とあり、舞踏会向けに着飾ったシーンでは年下の令嬢から「そんなに優美なウエストの持ち主はどこにもいない」と言われ「お世辞ではないのを承知していた」とゴキゲンだ。媚びない、夫の飾り物になるためでもない、ただひたすら自分の威厳のためだけのオシャレである。

これが本当の独身貴族というんだろう、と思っていたら、終わりの方で2年越しの片想いを実らせ、20歳年下の男と結婚した。しかも「どちらがより長生きしたかは謎」といわれるレベッカおばさま。

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2010年4月12日 (月)

「どちらでもいい」

51sczyf5w3l_sl500_aa300_1  アゴタ・クリストフは、「悪童日記」があまりにおもしろかったので、そのほかの作品はいまひとつ記憶が薄い。でもこの短編集は久しぶりにおもしろかった。

「どちらでもいい」早川書房

いかにもやる気なさそうなタイトルのとおり、なんだか脱力したような、それでいてデンジャラスな世界。冒頭の「斧」の過激なおババが早くも親しみを起こさせる。(たぶん「斧」の夫婦は、別の短編「ホームパーティー」の夫婦の未来バージョンなのだろう)。もっともそこで、あら、あたしの好きなパトリシア・ハイスミス風だわ~なんぞと浮かれていると、「家」とか「北部行きの列車」とかでガツンとやられる。やはりクリストフ以外の何者でもない。

「街路」は異色の幽霊譚で、散歩をこよなく愛する男、「死んだら街路にとり憑きたい」「しかし幽霊になった自分を見て怯える子供が気の毒」と変な悩みを持ちながら死ぬ。ロシア怪談「外套」と違って、どこまでも無害な老衰幽霊となる彼の、生前の姿が語られる。彼の「道フェチ」ぶりは、郷愁とか詩的感性とかを通り越し、もはや変質者である。この作者、ここまで書いちゃうところが好きだ。

ヤバくて気になるのは「わが妹リーヌ、わが兄ラノエ」。わずか2ページの中に近親相姦と児童売春というふたつの大罪が盛り込まれた戯曲風の作。妹の語りにでてくる「年寄りの男と女」はおそらく両親だろう。しかしなんでまた売春に駆り立てられたのか、何がどうなっているのかよくわからないまま尻切れトンボのように終わっている。ここまでやったらもう、ラノエのご学友30名様ご一行でもなんでもいいから洗いざらい全部書いてくれないと、かえって気味悪くて印象に残る。

ところで、人体だけでなく作品にも加齢臭というものがあると思う。もし老境になっても加齢臭をまったく感じさせない小説を書ける人間がいたら、それは天才というより「超人」なのかもしれない。そしてそれができるのは、爺よりむしろ婆なのかもしれないと思う。

また、加齢臭が作家の体質と混じりあった時、お香か白檀みたいな比較的崇高な匂いになるか、それとも悪臭と化すか……の境目がどこかにあるに違いない。私はどっちにしても異臭として感知するが、青臭いのはいち早く感知できるくせに爺臭さには鈍感な人、どちらか一方だけを好む人、など読者も様々なのだろう。

「どちらでもいい」に収録されているのは1970年代から90年代に書かれたものというが、この作家もともと老けやすい性質だから、早くも加齢臭が漂っている。しかしそれをありがたがる変態もいるのだから、捨てたもんではない。訳者の掘茂樹という人は完全にそのタイプらしい。この本はクリストフの埋もれた原稿から、編集者がよさそうなのだけ拾い集めてまとめたものだそうだが、もし茂樹が編者までやっていたら大変なことになっていたはずだ。が、ありがたいことにこの本はもともとパリで出されたもので、編集をやったのもパリっ子だったのかもしれない。おもしろいのはたぶん、その編集者のセンスのおかげも大きい。ピリッとスパイシーなのやほどよいオカルト風味、ファンタジー、遊び心もあって、なかなか楽しい品揃えなのだ。

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2010年3月25日 (木)

「ヘヴン」裏感想

 川上未映子の「ヘヴン」という小説は、たしかに技巧的にはたいへん上手に書かれている。しかし私は根底に流れる思想に納得いかないので、そんなに上等な小説とも思えない。

人にそう言うとなぜか驚かれ、それを文章にして、ブログ上でもなんでもいいから発表せよと言われる。どうやら個人的繋がりのよしみで訪問してくれるが、内心飽き飽きなので、たまには悪口を書いて知らない人からお叱りのコメントでもくれば面白かろうということらしい。

しかしこれは私にとって、独断と偏見ではあれ「おもしろいもの、好きなもの」を紹介する場で、「嫌いなもんをわざわざ紹介する場」ではない。批判めいたことは書いてもそれは「かわいさあまって憎さ百倍」みたいなもんで、ここに題名を出すからには決して完全に敬遠しているのではない。そこへいくと「ヘヴン」は、題名をキーボードで打つことすら面倒な類のものなのだから困った。

まず、メイン登場人物のコジマという女の子(といってもこいつは乙女ではないので「あの女」とでも言ったほうがぴったりくる)がどうしようもなくいやらしい。

たとえば、主人公の少年に自分の心情をとうとうと語ったあとで、「クラスの女の子たちにこういうことを言っても、わかるはずがない」とつけ加える。とにかく上から目線で、必死に伝えようとした結果「わかってもらえなかった」のでは決してない。そのくせ気に入った男には「あなたにだけ打ち明けるけど」みたいなポーズで近付いていく。なかなかの女である。

ところでこの女の理屈では、「この世には(学校には)いじめる人間と、いじめられる人間がいる。私はあえてしいたげられる側になるのだ」とかいう。

私だったら、こういうセリフは娼婦に言わせる。女子学生には言わせない。娼婦の偽善的美学にならふさわしい。

 確かに世の中には、やるヤツとやられるヤツがいるのである。しかし目標としてはあくまでも、「攻撃する側もされる側もない、平等な教室(世界)」を目指してもいいわけだが、それをしない。

もちろん目標を掲げたところで、物事は容易ではない。ただ、脱出する、告発する、転校する、なども言い換えれば理想的世界を目指した地道な行動といえる。しかしこの女、「世の中はしょせん不公平なもの」と地道な改革をなげた上で、「じゃあ私はやられる側になる」と、被害者であることを強引に美化する。

 それで彼女は嫌われても虐められても、なにがなんでも学校に来る。抵抗しないし、逃げもしない。これは暴力や虐待という「悪」に加担していることと同じだから、私にはとくに立派とも思えない。彼女は「やるヤツとやられるヤツが存在している不公平な世界」に加担し、その世界を形成する駒の一つであることを選んでいる。

搾取とか虐待されることを世の前提として、決して歯向かうことも逃げることもなく、「私は踏みつけられる側でいい」と共犯になる人間がいたら、支配する側にとってはこんなに都合のいいことはない。この小説の中では、一見はみ出しているように見えて真の革命魂は持たない者を、制度の枠の中で耐えてさえいれば最後には超越できるのだと持ち上げる。

私はこういう農奴的ファンタジーは好きではないし納得もできない。最後まで読めばわかるとおり、どこまでいっても強姦や殺害まではされないという、どうしようもない甘さとメデタさがある。もしも私が主犯の少年であって、クライマックスのようにこの女に本気でビビらされたら、逃げるよりむしろ殴り殺すかもしれない。どんな形の搾取や暴力であれ、やられっぱなしになっていれば行き着くところは破滅と死だ。そのへんの真理をきちんとするのがホラーなのだが、こういう純文学とやらは格好だけ死をこねくり回して、緊迫感がない。覚悟やイカれっぷりを見せることで加害者を撃退できるなどと、こんなファンタジーが流風することこそ危険だ。

ちょっとおもしろいところもある。ビジュアルにこだわるコジマは、少年の斜視が手術で治るときいたとたん泣いて怒り、彼を同盟から排除する。彼に、都合のいいペットでいてほしかった――そして自分のペットはキズモノでなくてはならない――このセンスはわからなくもない。ただ彼女は、面と向かって非難することで愛好者マナーに抵触してしまう。

たとえば、「ありふれた飼い犬じゃ、あたしの主義と美学とプライドが満足しない。あたしは片目で三本足のフリーク犬を愛することでアイデンティティを表現する」といって、どうにかして理想の犬を探し出すまではやっていい。しかし健康な犬の足をわざわざノコギリで切ったり、治せるのに治療しなかったりするのは、一線を越える。そこから先は地獄への道と心得てかからなければならない。

私には、ここらで彼女が一線を越え始めて、独善と逆差別に一歩踏み込んだように見えたのだが、その後の展開では、この件で(他の件でも)とにかく彼女をイノセントなものとして受け取るよう強いられる。この小説はあくまでも主人公の少年とコジマの視点なので、彼女が偉大で、根性が汚いのは周囲の人間であるということになっている。もちろん、周りに罪がないのではないし、そういう視点も悪くはない。ただ他の人が言うように「リアルだ」とは私は思えないし、充分偏った話でもある。魅力的なら偏っていてもいいのだが、この著者のキャラは魅力がない。

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2010年3月14日 (日)

居候の極意はパンダに学べ

003 こんなの見つけた。

ツルゲーネフ著「ルージン」金子幸彦訳(央公論社「世界の文学11」より)

 主人公ルージンは長身で男前、しかも口が達者で、ひどく高尚で哲学的に聞こえることをスラスラと喋りまくる。誰もが彼の知性と思想を高く評価し、ときには「天才」とまで言われる。

 そんなルージンが、ある貴族の屋敷にやってくる。最初は、友人の代理として論文を届けに来たのだが、女主人に気に入られ、いつの間にか居座ってしまう。どうやらこの男、タダ飯を食って、あちこちで居候しながら根無し草のように生活しているらしい。30過ぎにもなって、とくに非難される様子もないのは話術のおかげもあるが、どうやら昔のロシア貴族の家では居候がめずらしくないようだ。

この屋敷は地主の母娘の女所帯で、もう一人、パンダレフスキイという居候男がいる。よって一時は、古参のパンダレフスキイと新参のルージン、それぞれ個性的な二人の居候男が同居するという豪勢な状況となる。二人はとくにいがみあうわけでもないが、最後は居候のスペシャリストともいうべきパンダレフスキイが一枚上手のところを見せて、ルージン駆逐のきっかけをつくる。

ルージンはある種の男の典型といっていいようなわかりやすい性質を持っているが、パンダレフスキイはちょっと不思議な、宇宙人的キャラクターだ。あまりに長年いるので、女主人と寝ているのかと勘ぐりたくなるが、そういう記述はない。話相手をして、あとはピアノを弾いている程度なのだ。あとはただひたすら自分の役割と立場をしっかり把握して振る舞い、晩年はそれなりに安泰な収入源ももらったようだ(ビジネス書や生活指南書には、つきつめるとすなわちパンダレフスキイの生き様に行き着くものが少なくない気がする。彼は利口で辛抱強く、見事なシンプルライフを実践している。しかしカッコよくはない)

 ところでこの話、昔のロシア小説の例に漏れず、キャラクター名がややこしい。一番憶えやすいのはパンダレフスキイで、これは頭の中で「パンダ」と略すことができ、東洋的とされるルックスや、ペット的な役どころも動物園のパンダのイメージとそう遠くない。しかしこの同じ人物が、場面によっては「コンスタンティン・ジオミードイッチ」と呼ばれたりする。これは名前の上半分で、会話部分では「コンスタンティン」、それ以外では「パンダレフスキイ」になる。こんな調子で、未亡人のアレクサンドラ・パーヴロヴナ・リーピナ、その弟セルゲイ・パーヴロヴィッチ・ヴォルィンツェフ、隣人のミハイロ・ミハイルイッチ・レジネフ(これはミハミハと略す)等々とこみいった名前の人々が続くのである。

 ルージンに似たところのある人物は実際いるもので、私も何人か知っているが、みんなカッコイイといえばまあカッコイイのである。しかしその魅力にもかかわらず、すぐに芯のない花のようなアンバランスな本性が見える。たぶん私自身の中にルージンと似たところがあるから、それが見えるのだ。それで、たとえ好かれてもそそくさと逃げることになるわけだが、一方では、たとえ苦労したとしても添い遂げるという選択肢もあったと知っている。もしもSFでいうパラレルワールドのような世界があったら、そこにもう一人の私が住んでいて、ルージンのような男と暮らしているのかもしれない、と思うのである。

この物語に出てくるナターリヤは、私が一度もしなかった選択、つまりこのしょうもないルージンを愛するという、勇気ある決断をくだしている。この時点でナターリヤは読者の私にとって、別の世界に住むもう一人の私になる。ところがルージンが煮え切らないものだから、ナターリヤもけっきょく彼に愛想を尽かしてしまう。

(ところでその後にルージンがナターリヤに渡した最後の手紙ではまたしても彼の率直さと頭脳明晰ぶりが発揮されていて、「阿呆ならともかく、ここまで自分の欠点を把握していてどうして直せないんだ」という頭のいい人間の可笑しさがある)

そんな調子で女たちからは見放されるし、理想の高さや周囲から浮いてしまう性格が災いして、始めた仕事は次々と挫折。年取った貧乏な放浪者となってゆくルージン。彼は一体どう生きるべきなのか、こんな人間にも居場所はあるのだろうかと、ヒリヒリするようなスリルを味わいながらページをめくる。

途中、唯一の理解者であるレジネフが「なぜロシアにルージンのような男が誕生してしまったのか、その話はひとまず置いておくが……」と言う場面がある。私としては、この話をもっとしてほしかった。「資産家でなくても高い教育を受けられる制度によって誕生した」とでも言うのだろうか?

最後はハッピーエンドではない。ただ、ともかく作中の人物たちによってルージン問題がほぼ議論し尽くされ、「ルージンの生涯」みたいなものが完結しているので、ちょっとした満腹感がある。この本によって、ずっと前から私の心の中に棲んでいたやっかい者にルージンという名が与えられ、ひととおり人生を生きて、お墓に入ってくれたような平穏――ひとつの墓碑が建ったような安息が訪れる……

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2009年11月29日 (日)

エイメ「サビーヌたち」

51ewxmryqyl_sl500_aa240_1  一人は確実に収入を得られる仕事をし、もう一人が芸術的活動をすればいいというわけで、「自分が二人いればいいのに」と真剣に思ったことがあるわたくしです。

 これは最近見つけた、昔のフランス作家の異色な「分身女」モノ。

マルセル・エイメ「サビーヌたち」(角川文庫「壁抜け男」長島良三訳 より)

平凡な主婦サビーヌは特殊能力の持ち主で、分身をつくりだし、どんな離れた場所にも同時に存在できる。この分身たちは肉体と精神がシンクロしていて、無限に増殖することができ、不要になれば合併吸収もできる。

最初は分身を家事に使う程度だったサビーヌだが、あるときセクシーな画家に恋をして、この力を使えば完璧なアリバイのもとに不倫ができると気付いてしまった。この画家は怠け者で、彼女をもっと分身させて金を貢がせようとたくらむ。まんまとのせられてしまったサビーヌ、三人目の分身を大富豪の老人と結婚させ……

 

という調子で、ひょんなきっかけからどんどん分身が増えてゆき、しまいには分身が6万人を越えて世界各国に散らばる。これで彼女に政治的野心でもあったら一大事になるところだが、彼女の関心はひたすら恋に生きることだけなので、いたって平和だ。

ダイナミックなようなみみっちいような、奇抜でおもしろい小説なのだが、この著者、どうしてもキリスト教的世界観を持ち込まずにいられないらしい。

「分身を使って複数の男と暮らすのは道徳的にいいのか悪いのか」と思い巡らすのはまだわかるが、ゴリラと呼ばれる男が出てくるあたりから、だんだんついていけなくなってくる。スラム街で暮らしていた分身の一人が暴力男に襲われたことをきっかけに、他のサビーヌたちが「改心」を始めるのだ。

そもそも恋に関しては負け知らず、しかも分身能力を使えばどんな怪力レイプマンも撃退できたはずの彼女だから、相手の男もそれ以上の超能力と悪知恵を持っていた……という設定にせねば辻褄が合わない。それがただ単にサルみたいなやつで、彼女も「自分には拒む権利がない」と、いつの間にそこまで自虐的になったのかよくわからない。

さらに、どうせ改心するならすべてのサビーヌが結託して性暴力撲滅キャンペーンを始めるとか、女性の経済的自立推進委員会を設立しました、というなら真っ当だ。ところがこの虐待されている分身はそのままに、「他の分身たちの一部が愛人をすてて真面目な仕事につき、清らかで勤勉な生活を始めた」といわれても、なにか釈然としない。

働くのは結構だが(というか今まで誰も働いていなかったのか?)、一人の暴力男のせいで合意だったはずの恋愛や性生活まで否定しはじめる姿からは、「清らか」というよりむしろ「精神的外傷」という言葉が浮かぶ。それでもなおかつ男を信じて愛そうとしている他の「改心していない」サビーヌたちの方が、ある意味すごいとも思えるのだが。

解説によると、この暴力男は「神が」送り込んだことになっている。確かにそう読めないこともないのだが、だとしたら、火遊びした娘を父親が仕置きと称してレイプするのと大差ないではないか。これはまずい。一歩間違えると「奔放な女はちょっと痛い目にでもあえば大人しくなるんじゃないかね」という、昔ながらの暴力的な理屈に繋がりかねないような表現のまずさだ。

そのへんは変なのだが、かなり笑えるブラックな話で、サビーヌと画家とのやりとりもおもしろい。ちなみに画家の方の「改心」の仕方は、かなり順当だった。

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2009年11月23日 (月)

もう一人のシーリア

41mh1f2c64l_sl500_aa240_1  私はスタージョン自体はとくに好きではなくて、この人のほかの作品にもそれほど興味がわかなかったんだけれども、この短編だけはすごく好き。ただ、この物語の何がそんなに強い印象を残すのか、説明するのは難しい。

人間社会にまぎれた怪人物の哀愁漂う物語、「もうひとりのシーリア」シオドア・スタージョン(河出書房 大森望編「不思議のひと触れ」より)

ボロアパートの住人スリム・ウォルシュは、人の生活を盗み見るのが趣味。かといって話しかけて仲良くなる気もない。住人に気付かれずに鍵を開閉する方法を発見し、他人の部屋を覗き見してまわっているうち、ある一人暮らしの女の、異様な秘密を知ってしまう。

シーリアはディスカウントショップで働く、地味で目立たない女性。実は、人工皮膚みたいな人間の皮(?)を二枚持ち、その二枚を交互に使うことで人間になりすましている。

服は一揃いしか持っていないのに、皮は二枚持っているというところがなんだか笑える。毎晩仕事から帰ると、自分の中身を皮から皮へと移動させる。この場面はすごく不思議で、映画でも小説でも、他のSFやファンタジーでは見たことのない怪異だ。グロテスクというより、清らかで静謐な雰囲気もある。ミュータントか、異星人かはわからないが、何か企んでいるというのでもなく、ただやむにやまれぬ必要(生理的欲求?)にかられてそれをする。人類より優れているのか、劣るのかという問いも無意味で、ただひたすら「違っている」。

覗き男ウォルシュは好奇心にかられて、シーリアの皮のうち一枚を盗んで隠す。孤独な男が天女の羽衣を盗み、「返してほしければ嫁になれ」とせまる昔話にちょっと似てきたか……と思ったら、意外な悲劇であっさり幕切れ。シーリアは人間には想像もつかないほど複雑で脆く、スペアの「人間スーツ」を失って中身の入れ替え作業が遅れたことで致命的ダメージを負う。

彼女の「人間のフリ」はこんなにも命がけで、ちょっとした手違いで壊れてしまうギリギリのものだったのだ。ほとんど何も持たずに生活し、誰とも関わらず、都会の片隅でひっそりと低所得労働に甘んじていたシーリア。この、中身入れ替えというのか皮の交換というのか、これをすることによってかろうじて生命を保っていたらしい。

ちなみにこのスペアの皮、なぜかタイプ用紙を真ん中だけくり抜いたものの中に隠されている。他人にはどんなに奇怪に見えようと、この行為が彼女の存在の核であり、二枚目の皮なしには彼女の存在もありえない。すぐ近くで暮らす者さえ彼女の秘密を知らない。唯彼女に一関心を寄せた男は、ひたすら情報を集めるだけで交流も意志の疎通もまったくできない――

このシーリアを名乗る生き物が何なのか、何の目的で人間のフリをしていたのかは謎のままだ。危機に陥っても同胞に助けを求めるわけでもなく、あくまでも正体を隠すために自爆したようにも見える。人間の中でひとりぼっちであるだけでなく、謎の生命体としても天涯孤独のようだ。

ウォルシュの「傷つけたかったわけじゃないのに……」という言葉が、互いに決して理解できない者同士の断絶を表わすようで物悲しい。

シュールといえばシュールなのかもしれないが、私には「これは現実そのもの」と思えるほど本質的な何かを含んだ、暗喩のような都市伝説。シーリアは私にとって、身近で、どこか懐かしい存在。今もたくさんのシーリアたちが世界のどこかにいる、と感じる。

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2009年10月 5日 (月)

「マドモアゼル・ルウルウ」と「ル オルラ」

010 「マドモアゼル・ルウルウ(ジイプ著 森茉莉訳)」。絶版で手に入らないと思っていたが、いちごが筑摩書房の「森茉莉全集8」という本に載っているというので、図書館で借りて読むことができた。

この小説(というか戯曲)は与謝野晶子も絶賛したというので、与謝野晶子や森茉莉がおもしろいというんだから、よほどイカすヒロインなんだろうと思っていたが、残念ながら私には何がおもしろいのやらわからない。

主人公のルウルウ(14歳)はフランスの上流階級の娘で、器用で奔放で才気煥発な女の子。父がバカロレアを受験させようとして家庭教師を雇っているが、詰め込み式の勉強を嫌っている。しかし新聞の政治欄はおもしろがって読み、歌手や俳優ではなく内閣議長を待ち伏せして見物して喜んだり、美少年には見向きもせず父の友人の枯れたオヤジに恋したりする。かと思うと、近寄ってきた若い男を審査する時にはしっかり野生の女の本能を発揮する(というのは、社会的地位や文化面ではなく、主に体力、気力、機転、運動神経など、生命体としての出来が自分より劣るので「あんなトロくて、男とも女ともつかないような人とは死んでも結婚しない」という。そこで物語が終わっているのだが、この終わり方もなんだか意味がわからない)。

何についても口をはさまずにはいられず、忙しく意見を吐きまくり、「落ち着いて考えてから言いなさい」と言われると「私は落ち着いて考えると逆に思考停止状態になる」と答え、「どうしてそんな話をするの」と言われると「頭の中にあることが自然に出てくる」と言うルウルウ。

こういう女、多少の個性の違いはあれど、そこらにいくらでもいるような気がする。そうしてこれからも、ハエのごとくあとからあとからわいてくるのではないかという予感がする。ルウルウは14歳だから「早熟なおもしろいお嬢さん」で通るのだ。しかし私の知っている女たちといったら、30になっても40になってもこの調子だから、そりゃあちょっとは頓知があったり趣味人だったりするかもしれないが、もう早熟ともいえずさりとて円熟したともいえない、早晩ただのうるさいオバハンと化す

(ところで、40歳に「なっても」などというのは正確でないかもしれない。身近にいる、ある50代のルウルウ風の女性は、彼女をよく知る者の証言によると「20代の頃はたいへんな気取り屋で、ろくに口もきかなかった」という。つまりこの人は昔からお転婆娘だったわけではなく、30年かかって14歳のルウルウの状態へと脱皮をとげたことになる。これは時代の変化が関係するのか、それとも何か個人的な事情がそうさせるのだろうか?)

 そんなわけで「マドモアゼル・ルウルウ」は何がすごいのかよくわからないのだが、同じ全集8に載っていた「ル オルラ」は、私にとっても文句なしにおもしろかった。

これはモーパッサンの怪奇短編小説で、訳もたしかに素晴らしいようだ。違和感がなくて流れるように読める。内容は、

ある男が、これといって理由もなく突然、鬱病のような状態に陥った。彼いわく、まだ発見されていない、目に見えない生物がこの地上に存在している。その無色透明の生命体が、人の脳や精神に関与して調子を狂わせる。そして生命力を吸いとり、催眠術のように人を操るという。

その生き物の謎めいた生態が、手でさわれそうな存在感をもって生き生きと描かれる。

そいつは場所にこだわるらしく、白い船とか白い家が好き(あるいは単に田舎が好き)で、男がパリとかルーアンとか都会へ逃れると一時的に影響力を失う。水とミルクを好み、部屋に置いておくと勝手に飲んでしまう……というところがなんとも、胃がぞわぞわするような気味の悪いあどけなさを感じさせる(残念ながらというべきか、とりあえず私のウチにはいないようだ)。男が目に見えない生物に関する本を借りてくると、彼が寝た隙にページをめくって盗み読みする。それを見つかって慌てて、椅子をひっくりかえして窓から逃げるなど、コミカルな一面も見せる。

主人公の妄想といえばそれまでなのだが、後半は「どうして存在しないと言い切れるのだ!」「誰にわかる!」と畳み掛けるような調子で次から次へと理屈を繰り出し、有無を言わさぬ迫力と妙な説得力がある。しまいには、そいつは別の星から来たのかもしれないとか、ブラジルではやつらのせいで村が過疎化したというエセ科学論文まで登場し、だんだんSFめいてくる。

 思い詰めた男はとうとう「自分がやられる前にヤツを殺す」と称して破壊的な行動を始める。ここまでくると、やはりこれは狂人の内面を描写した話なのか、という気がしてくる。でもこのUMA、私は大好き。

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